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10分で読める伝記 2年生 [雑学]

図書館で牧野富太郎さんの伝記を探したら、これ以外にみつからなかった。

2年生向けに様々な分野の偉人の伝記を短く簡単な文章でとりあげている。低学年の子どもは好きなジャンルの本の難易度をあげて読んでいくのがふつうだそうです。
2年生になると時間的な経過をおって本を読むようになるとも書いてありました。

1エジソン
 知りたがりやの男の子トーマス・アルバ・エジソンは、ガチョウの卵をマネして温めたり、小麦粉の作り方を覗きにいって工場で小麦粉に埋もれたり、小学校でも質問ばかりで変な子どもと思われて3か月でやめてしまった。母親は「なぜ」と思う心は素晴らしいといって先生になって一緒に本を読んでくれた。科学の本に特にわくわくしたエジソンは、特に「電信の仕組み」にひかれた。
 12歳のとき汽車の中で新聞を売る仕事を始めた。3年後汽車にひかれそうになった駅長の子どもを助けて、電信の通信手の仕事についた。電信を使ってなにか新しいことができないか、夜に実験をかさね6年間を過ごした。
 22歳でお金も荷物ももたないでニューヨークにでてきて、まず金や株の値段を同時に多くの人に知らせる機械を発明し、銀行や会社の人に喜ばれた。もっとみんながほしいものをドンドンつくるといきごんで、友人をたくさん呼んでアイデアをだしあって、思いついたものをどんどん試していった。当時の発明家としては珍しいやり方。
 睡眠は2・3時間でがんばったが、むしろ楽しんでいた。ベルに電話の発明で先を越されて、もっと面白いものをつくると、ますます奮起して「蓄音機」を30歳のときつくった。 この後体を壊して休むために山にでかけ、そこで伝記で光るランプのアイデアをおもいついた。1万回以上失敗を繰り返し、1879年10月21日、木綿糸を隅にした材料をつかった電球が40時間もかがやき、明かりが誕生。84歳で亡くなるまで1000点以上の発明品をうみだした。決してあきらめない努力の人だった。


マリー・キュリー
 姉のブローニャが勉強するときに妹も巻き込んだところ、妹のマーニャはあっというまに姉より上手に本が読めるようになり周囲を驚かせた。本が大好きになったマーニャは友人たちが読書しているマーニャの周りに椅子を積み上げて崩して大きな音をたててもまったくきがつかないほどだった。2学年上のクラスに入っても、成績は一番だった。
 マーニャは大学に行きたいと思いましたが、ポーランドでは女性は大学にいくことは許されていません。フランスならいけますが、家にお金がありませんでした。そこでマーニャは家庭教師をして稼いだお金で、姉のブローニャにフランスの大学をでてもらい、医者になった姉にフランスに呼んでもらいました。24歳でパリ大学に入学し、このころからマリーと名乗るようになります。
 科学の勉強を始めたマリーは、そのころ話題になった「ウラン」というつぶが出す怪しい光の正体をつきとめようとします。結婚したピエール・キュリーという科学者も一緒に研究をしてくれました。そして「放射線」を発見しました。さらにもっと強い放射線を出すものを石のなかにみつけ「ポロニウム」と名付けました。しかし、放射線のせいで二人は病気になっていました。
 4年後にもっと強い放射線を出す「ラジウム」を発見、二人はノーベル賞をもらいましたが、まもなくピエールは交通事故で無くなり、マリーは一人で研究をつづけました。放射能はガンをなおしたり、機械のみえないところを調べるのに役に立つことがわかり、マリーは請われればお金をうけとらず、ラジウムの取り出し方を教えました。科学は世界のものだとおもっていたのです。長年の研究で白血病を発症し、なくなりました。


ベートーベン
 ルートビッヒ・バン・ベートーベンは酒浸りで貧しい音楽家の息子に生まれました。父親は彼をモーツァルトのような天才といわれる音楽家にしようと厳しい練習をさせました。11歳のとき王様の城でオルガンを弾くネーフェ先生にであい、ピアノをのびのびと自由にひくこと、作曲のしかたも教わりました。先生のオルガン演奏の仕事も手伝うようになりました。17歳のとき先生の誘いでウィーンに行き、モーツァルトに会いました。相手にされませんでしたが、なんとか曲の最初の部分をもらい、その先をつくる即興演奏をおこないました。モーツァルトはびっくりして、「この子は将来きっと立派な音楽家になる」といいました。
 ベートーベンの人気は高まり貧しい生活から抜け出し音楽家として歩み始めた27歳のとき、音が聞こえなくなりました。32歳で自殺を決意して遺書を書き始めますが、とちゅで心の音楽を曲にしようと決心し、作曲をはじめました。「永久」「運命」「よろこびの歌」などを作り出し、57歳で亡くなるまで200曲を作曲しました。


レントゲン
 レントゲンはドイツに生まれオランダで育ちました。高校生のころ告げ口を拒んで学校をやめさせられました。それでも勉強して大学に入学し科学者を志しました。物理学の先生の助手になり大学の先生になったのです。
 放電管というガラスの管に電気を流す実験をしているとき、実験装置を黒い紙でおおって電気を消すとはなれたところにおいてあった蛍光盤が光ることにきがつきました。見えない「何か」があると考えたレントゲンは愛でにいろんなものを置いてみました。鉛をおくと光はとおらず、手をだすと骨が写ることを発見しました。レントゲンはこの「何か」をX線となずけ発表し、ノーベル賞をもらいました。しかしXでお金もうけはしませんでした。世界中の人たちのために自由に使えるようにしたのです。


シートン
 アーネスト・トンプソン・シートンはイギリスの港町に生まれ、赤ん坊のころから動物好きでした。6歳のころ一家はカナダに越して、シートンはたくさんの動物に出会い、思いがけない体験をたくさんしました。タカからひな鳥を守る小鳥のキングバードなどです。 シートンは動物の絵が得意な画家として有名になり、アメリカで動物学者として活躍しました。そして動物たちの勇気や愛情知恵に感動し動物の物語をたくさん書きました。なかでも3か月にわたりアメリカのコランポー平原で知恵比べをして捕まえたオオカミ王ロボの話は、動物記に先立って発表され評判になりました。日本では「シートン動物記」として親しまれています。


レオナルド・ダ・ヴィンチ
 イタリアの農村ヴィンチ村に生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチは、絵がうまかったので、父親がベロッキオという有名な芸術家の工房にいれました。レオナルドの絵をみてベロッキオはすぐに工房によこすようにいいました。14歳から20歳まで仕事を手伝いながら絵や彫刻を学びました。
 20歳で独立してミラノにむかい、絵や彫刻をつくって評判になりました。大公にたのまれて修道院の食堂の壁にキリストと12人の弟子が最後の食事をする「最後の晩餐」をかくことになったとき、酒場でスケッチし、壁の前で何日も絵の構図を作ってからとりかかりました。周囲は絵筆を動かさないのでやきもきしたようです。そして製作中に修道院長とぶつかったりがありながら3年後に絵は完成。すばらしい出来栄えで、今では世界中の人たちに愛される名画になっています。
 レオナルドは芸術家以外に発明家で科学者でした。実現できたものはあまりありませんが、アイデアが描かれた絵は残っていて人々をおどろかせています。人体の構造を知るために死体を解剖したりもしました。
 絵を描くほかに興味のあることになんでも挑戦し、たくさんの勉強をして、いろんな才能をもっていたので、万能の天才と呼ばれています。


コロンブス
 500年前、ヨーロッパのイタリアにコロンブスという名前の船乗りがいました。彼の夢は黄金の国ジパングにいって、黄金を持ち帰ることでした。コロンブスは地球は丸いから西へ進めばアジアにいきつくはじだといって、1492年にサンタ・マリア号でと他の2隻の船と海にでました。船乗りたちが不安がって帰りたがる中、コロンブスは説得を続け、とうとうあと3日陸地がみつからなかったら帰るというところまでおいつめられました。しかし翌日、海にでてから70日目に陸地がみつかりました。そこはアメリカという大陸のそばにある島でした。勇気をもって西にすすんだコロンブスは新しい大陸にたどりついて人々を驚かせました。しかし死ぬまでインドだと勘違いしていました。


グリム兄弟
 グリム兄弟は230年ほど前、ドイツのハーナムに生まれました。父親が死んで貧乏でしたが、二人はよく勉強しました。それをみたおばさんが自分の住む町によんで高校や大学に行かせてくれました。お金がなかったので、借りてきた本を書きうつしたり、先生の家の古い本を読ませてもらったりしました。
 二人はドイツに古くから伝わるおとぎ話に心ひかれるようになりました。そのころ、おとぎ話はお母さんが寝る前に子どもに話すただの作り話で対して意味がないと思われていました。おとぎ話が子どもの心を育てる宝物と考えた二人は、おとぎ話が忘れられないように5年の歳月をかけてお話をあつめて、本にしました。兄ヤーコプ27才、弟ウィルヘルム26歳のとき「子どもと家庭のための童話」が完成。本がでたあとも少しずつ書き直したら、新しく集めたお話を付け加えたりしていきました。ウィルヘルムは子どもが読みやすいように話はそのままやさしい文に変更しました。あまりに怖い話は削り、面白い話をいれるなど二人で話し合い、おとうのルートウィヒの挿絵も入るようになりました。こうして子どもから大人までだれもが楽しめる本が完成していきました。50年後に最後に出した本には200をこえるお話がのっています。おとぎ話はグリム兄弟のおかげで誰もが楽しめる宝物になりました。


雪舟
 500年ほど前に活躍し日本の水墨画を完成させた画家でありお坊さんでもあったのが雪舟です。10歳で岡山のお寺に預けられましたが絵を描くのがすぎで修業をしないので、和尚さんが本堂の柱にくくりつけたところ、涙を使って足の指でネズミの絵を描いて、それがあまりに本物そっくりで和尚さんを驚かせました。
 岡山のお寺で数年をすごしてから、京都のお寺にうつり修行しながら絵の勉強をしました。水墨画を教わって一人前の画家になりましたが、何か満足できず、本場の中国に渡ることにしました。34歳で中国と商売をしている殿様がいるという山口に向かい、13年後にようやく中国にわたりました。雪舟に水墨画を教えられるものはいませんでしたが、中国でみた大自然が何よりの先生になりました。中国の人たちは雪舟の絵が素晴らしいので驚きました。
 日本に帰ってからは日本人が心からよいと思う水墨画をめざして日本中を旅して絵をかきました。そして「こんな景色があったらいいな」とおもう景色をかくようになりました。こうして日本の水墨画を完成させましたが、86歳でなくなるまで満足することなく絵の修行を続けました。

10
牧野富太郎
 150年ほど前に高知県のお金持ちの酒屋に生まれた富太郎は、小さいころから植物が大好きでした。父と母が亡くなったので厳しい祖母に育てられました。9歳で学校に通い始め、勉強はずば抜けてよくできました。のちに「植物の研究をするなら、広くいろいろな学問を学ばなくてはいけない」といっています。
 植物好きは相変わらずでした。東京で植物の研究をしている先生たちに会うと、彼らは富太郎がたくさんの植物を自分であつめて標本にしているのに驚きました。そして一緒に日本の植物を調べようと励ましてくれました。そのころ日本の研究は遅れていて、どんな植物があるのか、まだよくわかっていなかったのです。新しい植物は外国に送って名前をつけてもらい、種類ごとに分けてのせる図鑑もありませんでした。富太郎は、植物を調べつくして図鑑を創ろうと、東京の大学で研究をはじめ、日本全国にでかけて植物を集めました。一生のうちに40万枚もの美しい標本をつくり、神業といわれる植物の詳細な図を描き残しました。新しく見つけた植物に名前をつけ、1500の名前をつけました。研究をつづけながら本をかき、78歳で「牧野植物図鑑」を作り上げました。10年かけてつくったもので、今でも使われている日本の植物図鑑のもとになる1冊です。

11
安藤百福
 インスタントラーメンを発明した安藤百福は100年ほど前に台湾で生まれました。両親を幼いころになくし、厳しい祖父にしつけられ家のなかのことは何でもしながら育ちました。小学校高学年のころには身の回りのことは自分でして、人に頼らず自分で考えるくせもつきました。
 大人になると大坂で商売にチャレンジして、成功しますが、47歳のとき失敗して財産を全部なくし、家だけが残りました。そのとき、戦後まもなく焼け野原でラーメンの屋台に人々が列をつくっている姿を思い出し、「家庭でもすぐに食べられる便利なラーメンをつくろう」とおもいつきます。買っておいていつでもたべられて、長持ちして、お湯をそそぐだけでできるラーメンを作ろうとしました。家の庭に研究室をつくり、毎日4時間しか眠らないで研究しました。麺を長持ちさせる乾燥のさせかたは、奥さんが天ぷらをあげているのをみて思いつきました。
 1958年に世界ではじめてインスタントラーメンが完成し、「チキンラーメン」と名付けられました。これは魔法のラーメンと呼ばれ大ヒットしました。百福はアメリカにも持ち込んだところ、彼らが紙コップにチキンラーメンを砕いていれてフォークで食べるのをみて、カップ麺を思いつきました。世界ではじめてのカップ麺は「カップヌードル」が1971年に発売され、世界中に広まりました。お湯さえあれば鍋もどんぶりもいらない便利さがうけたのです。2007年安藤百福は96歳で亡くなり、ニューヨークタイムズはミスター・ヌードルに感謝という記事をのせました。

12
手塚治虫
 昭和の初めに生まれた手塚治虫の本当の名前は手塚治です。虫がだいすきで、特に「オサムシ」が自分に似ていると思ったことから漫画をかくときのペンネームを創りました。将来は漫画家が昆虫学者になりたいとおもっていました。
 中学生のとき両腕を切らなければならないような病気にかかり、治してくれた医者のようになりたいと思いました。戦争がおわったとき17歳だった治は、医者になるための勉強をしながら漫画も描き続けました。漫画を売り込んで17歳で4コマ漫画の連載をとりました。そのうちストーリー漫画の注文もくるようになりました。映画が好きだった治は動きのある画面をかいてみせ、みなのお手本になりました。
 しかし、漫画家と医者で悩んでいたところ、母親の助言で好きな方の漫画を選ぶことにしました。東京にでて本格的に漫画家になり生涯で700もの作品を書きました。「ジャングル大帝」「ブラック・ジャック・「鉄腕アトム」などの人気漫画を生み出して「漫画の神様」と呼ばれるようになりました。
 漫画家として成功してからはアニメをつくる夢に挑戦し、ディズニーの「バンビ」を80回もみて研究しました。自分の家に「虫プロダクション」をつくり日本で最初のテレビアニメ番組「鉄腕アトム」がうまれました。今では多くの人がアニメをつくるようになりました。
 60歳でなくなるまで、ひたすら漫画を描き続けました。


10分で読める伝記 2年生

10分で読める伝記 2年生

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研マーケティング
  • 発売日: 2011/04/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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