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ルネサンス人物列伝 [雑学]

ルネサンスの時代を7つの時代に大きく分け、それぞれの知的風習やその時代を支配した政治的関心をとりあげたあと、その時代の個人の伝記を載せる形式。一人3ページ程度で代表ていな作品や人物絵、関連する建物などの写真もある。
94人がとりあげられている。芸術家だけでなく、支配者や聖職者もいる。

ルネサンスは中世の文芸復興であり、希望の時代であるととらえられることが多いが、実は魔女狩りや錬金術などの疑似科学も同時に存在する暗黒も存在した。やりすぎの信仰に反対するものは少なかった。
1490年代以降はキリスト教会が内部分裂王朝間、宗教間の戦争が勃発し、兵士が市民の間に大虐殺と梅毒をまき散らした。新世界の発見と制服、先住民を服属、改宗、奴隷化もあった。

1400~1450年までの、古典に関心をよせ、ヨーロッパ規模の移動性によって新しい人文主義の確立と普及に貢献した10人をとりあげる。

1450年~1550年までの発見と騒乱の時代を5章にわけ、各章をひとつのテーマに絞って、ヨーロッパの再生の発展段階をおう。コンスタンティノープルの陥落(1453年)、百年戦争終結(1453年)、イタリアにおけるコーディの講和(1454年)、グーテンベルグの四十二行聖書刊行(1455年)これらの結果もたらされた相対的な平和と繁栄。この間はを2つの章にわけ、自己実現の可能性と、それを可能にした国家の統一を概説。

だが平和は続かず、1490年~1515年までは転換と不連続の時代に生きた15人の生涯。諸侯は世襲を拡大、軍隊を強化、帝国主義的冒険を開始。ルネサンスの価値観は闘争と経済的大変動で弱体化して、完全に衰退。

1510年~35年、キリスト教会の崩壊の拡大やスペインの国力の勃興に隊尾書したヨーロッパ人16人。

1530年~50年にかけて活躍した男女、かれらの祖父母は想像もできなかった宮廷文化や新教徒の文化の出現

1550年~1600年、近代初期の世界と真剣にとりくんだ14人。かれらにとってルネサンスの楽観主義と過剰は、色あせつつあるものだった。

1 古い伝統と新しい思想 1400~1450
1400年は腺ペストによって人口が激減し、ドイツは分裂し、フランスは狂王シャルル9世のいかれた君主に支配され、イギリスではリチャード2世がクーデターで玉座を失う。教皇庁はローマとアヴィニョンで対立していた。神聖ローマ帝国は衰退し、異民族の脅威にさらされていた。混沌とした時代ではあったが、人口の減少により、生き残ったものたちは裕福になった。特に北イタリアと、ネーデルランド・フランドルは繁栄の時代にはいり、経済的成長によって得た富を富裕層は工芸品や居室、美術品へむけた。北イタリアではローマ以前の古典遺産の再発見がすすみ、それはアルプスの北側へひろがる運動となっていく。

・マニュエル・クリュソロラス
 コンスタンティノープルの旧家に生まれたギリシア人。ギリシア古典を習得しビザンティン宮廷につかえた。ビザンティン帝国のためにしばしば西方の国との交渉にあたり、フィレンツェにもその仕事できた。その後請われてフィレンツェで3年間、その後ほかの都市で教鞭をとった。ギリシア語とギリシア古典を教え、彼の教え子がたくさんの古典をラテン語に翻訳している。本人もプラトンの国家などをラテン語訳している。晩年はビザンティンの宮廷に戻り外交を行っていたが、1415年に急死した。

・クリスティーヌ・ド・ピサン
 ヨーロッパで最初の女性職業作家。フランスの初期人文主義者。最初のフェミニスト。ヴェネツィアの医者の娘に生まれ、父親がフランス王シャルル5世の医者になったためフランスに移住。正規の教育はうけれなかったので、比較的学問を奨励していた父親のもっていた資料で独学した。15歳で美男の若い学者と結婚したが相手が夭折し、経済的理由から執筆をはじめ、生涯で30冊の本を残した、そのなかには軍事論まであった。富裕なパトロンを何人ももち、彼女の著書は今日でも刊行されている。

・レオナルド・ブルーニ
 穀物商の息子ブルーニは、法律を学ぶためにフィレンツェにきて、クリュソロラスのギリシア古典に魅せられ、ギリシア語に転向。古典文学の知識をみつけて、富裕な友人たちの援助を受けた。その後一時ローマ法王庁に使えたりしたが、最後にフィレンツェに戻り書記官としてはたらいた。生涯にわたって、ギリシア古典の翻訳などの執筆をおこない。晩年には「フィレンツェ人の歴史」を著してフィレンツェの名誉市民となった。

・ヤン・フス
 ボヘミアの司祭で教授。ルターの思想のもとになった人物。チェコ語で礼拝をおこない、チェコ語のアルファベットを合理化し改良した。このアイデアはスラヴ諸国でいまも使われている。チェコの民族主義を擁護し、聖職者を腐敗を罵倒したが、破門され異端とされた。田舎で2年間の逃亡生活をおくり、教会の分裂を修復するためのコンスタンツ公会議に向かう途中でつかまり、異端とされ裁判でも主張をかえなかったため火あぶりにされた。彼の死後、チェコでは反乱がおきた。今でも彼はチェコの英雄である。

・フィリッポ・ブルネレスキ
 サンタ・マリア・デル・フォーレの解決不可能とされていたドームを完成させた人物。その功績をたたえて、サンタ・マリア・デル・フォーレの中に彼の墓がある。15歳で金細工師に弟子入りし、親方になった。ローマに旅行した時古代の建築物のプロポーションをスケッチし、計測することで空間概念を十分に把握して、一点透視の遠近法を理解して美術の世界を変えた。

・聖ベルナルディーノ・ダ・シエナ
 少年のころから修道士になりたかったシエナは、フランチェスコ修道会で修道士として叙階された。1404年にあるヴィジョンをみて説教師になった。彼の説教は非常に巧みで多くの民衆をひきつけた。イタリアの諸都市で派閥の分裂を批判し、和解をといた。彼の説教は人々を感動させ、一時的に派閥争いがおさまったが、死後はまた復活した。

・ドナテッロ
 ルネサンス最初の美術家。大きな人物をノミで掘る技術を復活させた。初期のキリスト教徒が偶像としていたため、彫刻は浮彫パネルや小彫像のみになっていたのだ。ゴシックの彫刻師たちが大きな像を復活させていたが、完璧に古典的形式で再創造したのはドナテッロである。彫刻によって表現された布が人体の骨格を表現し、体重移動の原理が用いられていること、人物の感情が顔にあらわれていることが特徴である。晩年にパトロンが減っていく中で、コジモ・デ・メディチは彼に注文を出し続け、死後は自分の墓の近くに葬るよう遺言した。

・コジモ・デ・メディチ
 フィレンツェを初期ルネサンスの最前線に踊りださせる中心人物の役割を果たした。父親がフィレンツェに銀行をつくり、それを大きくした。コジモと弟のロレンツォは簿記・預金管理・資金譲渡・貸付といった家業の訓練をうけて家業を相続。信用状(トラベラーズチェック)の発行や、諸侯への貸し付けで家業をおおきくし、政治的影響力も持つ。独学で外国語を学び、外交を楽しんだ。一時財産目当てに逮捕・追放されたが、事前に財産をヴェネツィアに移しており、この陰謀は不調におわり、請われてフィレンツェに戻ることになる。ゆるやかに彼の支持はひろがり、政策は実行された。1439年にはカトリック教会とギリシア正教の統一を呼びかける公会議をフィレンツェで開催。政治的名声を確かなものにした。芸術へのパトロネーゼの名声は今日まで続いている。死後は「祖国の父」の称号をおくられた。しかし彼に始まるメディチ家の繁栄は、イタリアが共和国から貴族政治にうつる兆候でもあった。

・ヤン・ファン・アイク
 フランドル地方で生まれ、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンにつかえたヤンは、神がつくった世界への賛美を細部を描写することでおこなった。その精密な絵画のために画材として油彩が開発された。徹底して自分の眼にうつるものを、遠近にかかわらず描写するスタイルは、イタリアで人気を博し、ボッティチェッリらに影響を与えた。

・マザッチオ
 数学的に正確な遠近法の線を引いた、古典以来の最初の画家。生い立ちはよくわからない。友人である建築家のブルネレスから遠近法を学び、単一の消失点を構成し、三次元を再現した。絵画のドラマと自然主義は彫刻家ドナテッロの影響である。たった6年の活動で、貧困のなか27歳でなくなったが、彼の作品はボッティチェッリやミケランジェロ、ダリなどの美術家によって熱心に研究された。


2平和の時代のヨーロッパ人たち 1450~1475
1450年代からルネサンスのペースは加速する。コンスタンティノープルの陥落で十字軍の幻想が完全に砕けたが、ビザンティン帝国から大勢のギリシア人が古典の写本をもってイタリアの諸都市にやってくる。
イギリスがフランスの玉座への野心を放棄し、100年戦争が終結。イギリスはばら戦争の内乱に入り、大陸との交流が途絶。フランスは野心的王が続き、イタリアや低地地方(ネーデルランドなど)へ手を伸ばそうとする。
イタリアの諸都市は、分裂したままではフランスやトルコにつけいられると悟り、同盟を結ぶ。こうして生まれた平和は2世代分続き、創造的活動が加速した。そこに活版印刷技術が持ち込まれ、その伝播速度も加速する。
教皇ニコラウス5世がアフリカの黒人を奴隷にし、土地を併合することを許可。新世界への扉がひらかれた。ラテン語は俗語に道を譲り、国境を越えてあらたな思想があふれかえった。

・フラヴィオ・ビオンド
 歴史家で考古学者。教皇領のフィルリに生まれ、人文主義者として古典的教育をうけたあと、教皇庁宮廷の秘書官という就寝の就職口をえてローマにやってくる。そこで目にしたローマの廃墟(中心はほかにうつっていた)を詳細にしらべ、「デ・ローマ・インスタウラータ」というローマについての正確な案内書をうみだした。そして新しいローマを建設し、教皇庁が政府を改革し軍隊を再編する模範とすべしとした。彼の著作によって大勢の外国からの訪問者がローマにやってきたが、皮肉なことに、彼が称賛した建造物は、それらの人々や発展するローマの建造物に流用され、廃墟化がすすんだ。

・ルカ・デッラ・ロッビア
 金細工師のもとで徒弟奉公をしたあと、フィレンツェのナンニ・ディ・バンコの工房で人物彫刻を学んだ。ナンニの死後は彫刻家ドナテッロの工房に移った。1432年には石切り工の組合に登録して、フィレンツェ大聖堂のオルガンの覆いの大理石にレリーフをつくった。そのケルビムたちは細部にこった、個々の人の表現にこだわった優美なものだった。しかし、遠くからみるとその印象はぼやけてしまう。ルカは彼の彫刻の特徴を際立たせる方法を探し、テラコッタに釉をかける技術を開発。この方法で作った白い人物像は評判を呼び、注文が舞い込んだ。1446年ルカは弟子たちを説得してフィレンツェ北西の端の広大な土地に陶器工房をつくった。工房はメディチ家のピエロの家に近く、彼のすすめで、いろいろな色をためしてみた。作品のいくつかがメディチ館に残っている。
この工房は装飾的な葉や花や果実を型を使用することで工業的な生産性をもつことになる。しかしルカの死後、3世代目になると、模倣作品ばかりになり、ほかの工房とかわらないという評価をうけることになった。

・ニコラウス・クザーヌス
 ドイツ西部モーゼル河畔のクースの町に裕福な商人の息子として生まれたニコラウス・クレプスは、父親に厳しくされて回漕業から逃げ出したと思われる。ネーデルランドから学問をはじめ、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。ケルン大で教えたあと、トリアー大司教の秘書官になり法律事務に従事。そのご公会議から教皇に乗り換え、教皇エウゲニウス4世の特使になる。1499年司教・および枢機卿に叙任され、教会の用務であちこちを旅した。政治論・神学論・幾何学・占星術など、広く興味をもち、旅の途中で得た古典の著作を紹介した。初期ルネサンスの最大の思想家であり、アルプスより北の学者としてはただ一人の熱狂的人文主義的学問とラテン語を愛した、ただ一人の人物である。実験よりもスコラ哲学に結びついた理論的考察を重んじた。彼の著作はコペルニクス、ブルーノ、ケプラーの著作のために土を耕したものであったが、彼の関心は常に人間ではなく神にあった。

・フランチェスコ・スフォルツァ
 スフォルツァとはすばらしく力強いという意味。14世紀末、男たちは傭兵隊を結成し、パトロンのために戦う軍事契約を結んで報酬を得るようになった。畑仕事より報酬がよいためこうした傭兵隊が多く生まれた。スフォルツァの父親もそうした傭兵隊の隊長で、スフォルツァは庶子で7番目の息子だったが父親に気に入られて、彼の死後傭兵隊を受けついだ。しかしあまりに強く個性的だったので、いつも雇い主とケンカになってしまい、公国の辺境に駐留という体のいい追放をうけていた。ミラノ公フィリッポ。マリアにつかえたとき、フェルモ市を征服し、自分の領国を確立するのに成功。公は相続人の娘との結婚を条件にして両者は和解する。公の死後、ミラノはいったん共和制になるが、スフォルツァはミラノを包囲して陥落させた。彼の治世はほかのイタリア人君主に比べて冷静で合理的、公平で、ミラノ市民の心をとらえた。市民病院が建設され運河が建設された。他国に先駆けて外交官を利用して、敵国の意図をさぐらせたり、相違を穏便におさめる仕事をさせた。この方法で彼は敵対関係にあったフィレンツェのメディチ家との間に信頼関係を築いた。またほかの国を説得し、ローディの講和として知られるヨーロッパ初の不可侵条約に各国を署名させることに成功した。

・レオン・バッティスタ・アルベルティ
 亡命貴族の庶子として生まれ、父親の死後は追放をうけたアルベルティは生涯不安げに人の関心をひこうとしていたようだ。教会法で学位をうけ、その後聖職者となり、教皇エウゲニウス4世から教皇庁書記局で楽で収入のよい仕事にありついて、あとは思いついたことを研究する生活を送った。マザッチオとブルネレスキの親友で、フィレンツェで進行していた絵画革命を目撃、研究書「絵画論」をかいている。聖職者になるまえには「家族論」など世俗的な研究もおこなっていたが、これは批判もあったようで、かわす意味で聖職者を選んだのかもしれない。もっとも理想を実践にうつしたのは建築学で、教皇ピウス2世の命令で、ウィトウィウスの諸原則を用いてピエンツァの町全体をすばらしい小都市として創造した。ヨーロッパ初のルネサンス人で多様性に富んだ経歴を持つ人物である。

・教皇ピウス2世
 シエナの貧乏な貴族に生まれたアエネアス・ピッコローミニは、畑を耕しながら親切な司教に読み書きをならった、シエナ大学で人文主義的カリキュラムをうけたが、酒場の方が好きだった。そのご法学を勉強中にバーゼル公会議へ向かう司教についていって教会秘書官になり、法学をすてた。パトロンを変えながらその地位をあげ、ドイツの皇帝フリードリヒ3世の宮廷の桂冠詩人になった。詩や戯曲、ポルノ小説からボッカチオ風の小話までおびただしい作品をつくった。フリードリヒの弁護人・仲介者としてローマと交渉する間に教会組織と教皇エウゲニウス4世に親しみを覚え、放蕩生活にあきたとして聖職者となった。司教・枢機卿とトントン拍子に出世し、エウゲニウス4世の死後に教皇に選出される。しかし彼の保護を期待して集まってきた人文主義者たちは失望することになる。教皇になってからは人文主義的活動はほぼせず、唯一彼の出身地コルシニューノをほぼ完全なルネサンスの計画都市として創造したことが人文主義者としての足跡である。この村は建築家レオン・バッティスタ・アルベルティなどの建築家によってつくられ、名前をピエンツァにかえた。教皇位について1年後にコンスタンティノープルが陥落し、ピウス2世は十字軍を召集するが、従う王はいなかった。失意のままアンコーナでなくなる。

・ロレンツォ・ヴァッラ
 初期ルネサンスの論客ロレンツォ・ヴァッラは、北イタリア出身でローマとフィレンツェでブルーニからラテン語を、アウリスパからギリシア語を学んだ。どちらも当代一流の学者である。学生のころから署名入りの執筆をはじめ、文章家として名声を得た。大学で教鞭をとったり、ナポリ王アルフォンソ1世の王室秘書官になたりしながら、ラテン語の文法の本をだし、稚拙な翻訳を攻撃した。中世の偽造文書を見破るのを楽しみ、クレドは12使徒が書いたものでないと証明したりした。快楽と利益を擁護し、教会の禁欲主義と対立した。何度が異端で告発されるたびに逃げ出した。最終的に教皇庁の秘書官という高給な閑職にありついた。彼の著作は60年後にエラスムスやルターによって刊行され、教会に打撃を与えることになる。

・アレッサンドラ・ストロッツィ
 ルネサンス時代の結婚は、恋愛ではなく合併や買収の問題だった。富裕なエリートにとってはなおされだ。古い名家の女家長アレッサンドラ・ストロッツィは、息子たちに多くの手紙を書き送った。彼女は14歳で結婚したが、28歳で夫と3人の子どもを亡くした。このため以降の一族の通信は彼女が管理したのだ。彼女の手紙からこのころの貴族の女性の教育は限定的であったことがイタリア語の文章やつづりの間違いからわかる。息子のフィリッポとロレンツォは成人した後メディチ家によって追放されナポリに行った。彼女は二人に多くの手紙を書き送った、アーモンドの値段から、豚肉屋との口論、四旬節の断食など細部にわたるが、一番の関心は子どもたちの結婚であった。彼らの妹の結婚と持参金について、息子たちには結婚を促す手紙を送った。息子のたちの結婚相手の物色も彼女の大きな関心をしめた。このころの貴族の男性の初婚は29歳、女性は16歳が普通で、妹も16歳で結婚した。息子のうち長男のフィリッポは追放がとけてフィレンツェに戻ったあと40歳で結婚、孫のアルフォンソが生まれた、アレッサンドラの関心は孫の成長にうつるが、まもなく亡くなった。

・イゾッタ・ノガローラ
 ヴェローナの少女イゾッタ・ノガローラはイタリア初の女性人文主義者として20歳のときには名声は確立していた。家はエリート階級だったが、少女が進歩的な学問をうけるのはまれで、男性親族の許可が必要だった。未亡人の母は娘4人に古典の学問をさせたが、イゾッタと妹のジネヴラは特に優秀だった、ジネヴラは結婚で学問が中断してしまったが、イゾッタは未婚の成人女性として家で研究と執筆をつづけた。このころの人文主義者たちは書簡をやりとりして議論し、それをまとめた書簡集を回覧するのが普通だったが、イゾッタはこれをおこなったヨーロッパで数少ない女性である。優秀な彼女の貞節をうたがう批判がでると、一時隠遁生活を送るが、宗教学者としてでなおした、最も有名な著作「アダムとエヴァについての対話」では、ヴェローナ総督のフォスカリーニとの対話形式で、エヴァはもともと弱い意志と限りある知性を与えられたのであり、知性あるアダムの方が罪は重いなどの説を展開した。フェスカリーニとは膨大な書簡を交わす間柄であったが、フォスカリーニは既婚者であった。晩年母親をなくしたイゾッタはフォスカリーニの家に移って執筆をつづけてなくなっている。

・フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
 イタリア東部の貧しい丘陵地帯の小領主の庶子にうまれたフェデリコは、22歳のときウルビーノ公国を継承した。国は財政破たんしていたので、彼はそれまでと同じく傭兵隊長として働いた。勝ち組につき、個人的感情ではなく職業的誠実さで仕事を行い、多くの金をかせいで、それをウルビーノにつぎ込んだ。国に重税をかける必要がなく、市民たちに好かれる君主だった。彼は自分の国にしては立派な宮殿と図書館をたて、多くの本を写本させた、印刷術を世俗的だときらった。彼の国ではほぼ半分の人間が彼の宮廷で働き、あと半分はその人たちのために働くという構造であった。また画家に多くの肖像画をかかせた。教皇の甥にたくさんの持参金つきで娘を嫁がせて、正式に公に叙任された。しかし、病弱な息子が跡継ぎを残さないでなくなると、宮殿の家具や絵、図書館の本は持ち去られ、ウルビーノは教皇領となる。

・ルクレツィア・トルナブオーニ
 彼女はピエロ・デ・メディチの妻で、ロレンツォ・イル・マニフィコの母である。フィレンツェの政治や都市情勢について、夫と子供に助言した。公職にはついていなかったが零落者は彼女に援助をもとめ、野心家は贈り物をおくる存在だった。ピエロは痛風で病弱だったので、ルクレツィアが外交的役割をした。しかし教皇領への派遣は批判をよんだ。ピエロの死後は息子に助言した。人文主義的修練はうけていたなかったが、教養があり人脈があった。残っている手紙から彼女への援助申し込みがいかに多様で多かったかがわかる。彼女は神聖さをおびた母親的役割のイメージをかぶることで、本来女性が公的な領域にいることのそしりをうまくかわしていた。私的な執筆活動も行っており、取り上げるのは自分の民の公益のために男性の領域に足をふみいれた女性たちだった。

・ジェンティーレ・ベッリーニ
 初期ルネサンスの巨匠、ジュンティーレ・ダ・ファブリアーノの名前を付けられた、ベッリーニは、初めてカンヴァスに油彩という新しい方法を編み出した人物であり、顧客の肖像画を独立してかくという方法をはじめてとった。会議室の装飾にも大きなカンヴァスを何枚も持ち込んで、広場などを舞台に大勢の群衆や劇的な事件を書き込むという手法をとった。彼の肖像画の評判をきいたオスマン・トルコのメフメト2世に呼ばれ、イスタンブールの宮廷でスケッチなどを残した。メフメト2世は大いに感心したという。都市全体を主役にして、一人一人や建築の細部を綿密に描く都市景観画家の伝統は、彼にはじめり2世紀以上あとにカナレットやフランチェスコ・グァルディによって頂点を迎えることになる。イスタンブールから戻ってからは、当方幻想をもりこんだ異国の都市景観がを残している。

・メフメト2世
 メフメト2世は20歳でビザンティン帝国のコンスタンティノープルを陥落させた。その後、イタリア半島の眼と鼻の先まで軍隊を拡大、バルカン半島を超えてドナウ川とベオグラードに迫った。ヨーロッパでは彼をサタンの再来といっていた。しかし、メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブールとして効率的によみがえらせ、ほかの宗教に寛容で、ギリシア人やユダヤ人にも交易権をあたえ、彼の治世で異教徒であることはなんの問題にもならなかった。教育にも熱心で、彼の招きでキリスト教徒の美術家や学者が群れをなしてやってきて、イタリア・ルネサンスの思想とデザインをもたらした。こうした評判が伝わり、教皇ピウス2世は、「キリスト教徒になれば、東ローマ帝国の皇帝として支持するが、拒めば十字軍を送る」と脅したが、メフメトは拒否。ピウスは十字軍を宣言するが従う国はなく、失意のうちになくなった。一方でメフメトの築いたオスマン帝国は500年続いた。


3勃興する国家 1470~1495
15世紀の最後の四半世紀は、中央集権化された政府をもつ統一国家の勃興である。もっとも成功したのはフランスでブルゴーニュ公をほろぼし周辺を制圧、王権を貴族たちにみとめさせ、税金をあつめることに成功。イギリスはヨーク家とランカスター家の争いが長引いた末にヘンリー・チューダーが王位を獲得。司法・行政・外交の組織と国王顧問会議を復活させ、王権の強化にのりだす。スペインはフェルナンドとイザベルの結婚によりアラゴンとカスティリャの連合国家が成立。中身は小国の連合体であった。二人は法王庁からスペイン教会の行政権を譲り受け、文化的な統一を目指す。言語はカスティリャ文法の本が出版され、文化的アイデンティティとなる。ブルゴーニュ公がなくなって君主を失ったネーデルランドは不本意ながらハプスブルグ家に入り、ドイツは細分化された自由都市と封建所領の集まりで、名目上ハプスブルグ家が王であったが、かれらの基盤はオーストリアにおかれたままだった。イタリアは洗練された都市国家にわかれたままであったがローディの講和で平和が浸透し、武器よりも大使たちが頼りにされていた。

・ウィリアム・キャクストン
 ロンドンの裕福な織物商人。ウィリアム・キャクストンは、毛皮や毛織物を運びながら手書き写本も売っていた。船のでない凪のときに「怠惰をさけるため」翻訳を始める。英国王エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークが草稿読みをてつだって文法をチェックしてくれた。学者でなかったキャクストンは苦労しながらも「トロイ物語集成」をフランス語から英語に翻訳。ドイツで購入した印刷機で印刷本をつくったところ、熱狂的な読者がとびついた。この時代英国民のかなりが英語しかよめなかったのだ。好機とみたキャクストンは15年以上の印刷活動で100点ほどの書物を印刷。チョーサーの「カンタベリー物語」など英国の作家のものもある。自身でも読みやすさを心がけて翻訳をつづけた。
大衆のし好を理解する彼の商売はうまくいったが、ほかの印刷業者は破産していた。

・ハインリヒ・クラマー
 15世紀のエリート層は、民衆文化にそれほど影響されず、10世紀に布告された迷信と異端に関する規範を導きにしていた。魔術はキリスト教の脅威とされていなかった。クラマーは「マレウス・マレフィカルム(魔女の槌)」という題の百科全書的魔女狩りマニュアルを作成し、異端への危機を訴えた。彼の本はその後200年、「黒魔術」についての議論の枠組みとなった。初期のころは、魔女をみつけて裁こうとする彼の行動はやりすぎとみられることもあったが、彼は執念深く本をかき、教皇庁に魔女が異端であるというお墨付きをもらい、魔女狩りにあけくれた。

・フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス
 フェルナンドとイサベルの結婚によって成立したアラゴン=カスティーリャ連合の第3の君主シスネロスが存在した。彼はマドリードの北の貧しい村に生まれ、サマランカ大学で法学を勉強し、ローマで法律家として教皇庁宮廷につかえた。ピウス2世に気に入られ聖職禄を与えらるが、スペインの大司教が拒んだので牢にいれられた。6年を牢ですごしたあと主張がみとめられると、すぐにもっといい教区と交換してしまう。頑固で独善性のある人物だったようだ。フランシスコ修道会に入り、禁欲的生活を送ることになる
その名声をきいたイサベル女王がかれを贖罪司祭兼主席顧問にやとった。このときシスネロスは50代後半。ここから彼の出世が始まる。スペインの首座大司教にしてカスティーリャの大法官となり、華美な生活はうけいれなかったが、権力は使った。信仰を旗印に怠惰な修道士を追い出し、イスラム教徒を攻撃した。イサベルの死後はフェルナンドと共同統治して、異端審問官長官になり枢機卿に任命された。70歳を超えてから北アフリカを進行したが、フェルナンドがナポリをめぐるフランスとの戦いに巻き込まれて放棄。フェルナンドの死後は摂政となったが、晩年は精神的遺産を残すことに専念し、アルカラ・デ・エナレス大学を創設した。

・フェリックス・ファブリ
 チューリヒ生まれのフェリックスは12歳で宗教的宣誓をおこなってドメニコ修道会に入会。やがて聖地巡礼にいきたいという強い希望をもつ。はじめての聖地巡礼は単独で6か月かけてエルサレムへの旅だったが、かなり苦労した。そこで次は4人のドイツ人騎士の巡礼に「専属祈祷師兼聴罪師」として契約して、かなり快適安全な旅をした。パレスティナを越えてシナイ山のサンタ・カレリーナ修道院までいった。この間記録をかき残し陽気な修道士の個人的な旅日記だした。初期ルネサンスの個人的旅行記のひとつである。体験をユーモラスに、率直に語っている。他にも旅行記をかき残したあと、ウルムの修道院で晩年を送った。

・アントニオ・デ・ネブリハ
 アンダルシアのレブリハに生まれたアントニオは15歳でサマランカ大学に入学するが、ラテン語の授業に不満をもち、イタリアでラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を学んで帰国した。一時は貧困生活を送ったが、カスティーリャ王エンリケ4世の顧問フォンセカ司教に付き従い、サラマンカ大学の教授になった。「ラテン語入門」という大学の教科書をかいて成功した。ラテン語とカスティーリャ語の辞書も書いた。聖書を古代の言語で研究する仕事が教会に異端とみなされ、大学にいにくくなったので、シスネロスの創設したアルカラ・デ・エナレス大学にうつり、シスネロスの「コンプルテンシアン多言語対訳聖書」の編纂学者になった。そのほかにカスティーリャの文法書をつくり、イサベルに献本した。女王は「カスティーリャ語が話せるのに、なぜ文法書が必要なのか」といぶかしがったが、彼の本はスペインの統一言語のもとになり、新世界でも使われたのである。

・マティアス・コンヴィヌス
 15世紀にフィレンツェが金融業と織物業で富裕になっていたころ、ハンガリーは大部分が農地の封建王国だった。パリの人口は30万だったが、ブダは1万人だった。しかし人文主義者のハンガリー王マティアス・コルヴィヌスによって、アルプスから北で最初にルネサンスを享受した国になった。父親はトルコ軍を敗走させた英雄フニャディであったが、ハンガリー王ヤンは彼の名声をおそれて息子二人をブダへおびき出し、兄は殺し、弟を監禁した。これがマティアスである。王の死後マティアスは市民に選ばれた。政府を効率化し、土地所有者たちに課税したお金で傭兵軍を召集、黒軍とよばれる彼の一人の指示に従う軍隊をもち、再来したトルコ軍の進軍を阻止して、ヨーロッパの英雄になった。しかし、ほかの国や教皇は軍事的支援はしてくれなかったので、トルコとは休戦してウィーンまで制圧した。戦闘とおなじくらい読書を好み、6か国語を流ちょうにあやつれた。2番目の妻ベアトリーチェはナポリの王女で、イタリアの華やかさをもちこんだ。彼のコルヴィナ文庫は印刷術が普及する前の図書館としては世界最大規模の2000冊から2500冊の蔵書があった。跡継ぎはオーストリア人の愛人がうんだ庶子だけだったが、彼の王位継承権の確保に失敗。その後の王は外国からむかえられたが、黒軍の維持に失敗、ハンガリーは戦果を失った。マティアスはハンガリー人最後のハンガリー王となった。

・ロレンツォ・デ・メディチ
 生まれたときからフィレンツェの支配者となるべく祖父コジモから帝王教育をうけた。父親が痛風やみで病弱だったからである。完全な人文主義的教育をうけ、詩人としての才能をしめした。イタリア俗語詩の救世主となった。ローマの貴族の娘クラリーチェ・オルシーニと結婚し、メディチ家は貴族の仲間入りをする、息子や娘たちを貴族の子弟や教皇の庶子と結婚させ、息子を枢機卿にした。政治と外交には優れた手腕があったが銀行業は苦手であった。メディチ家を恨む銀行家のパッツィ一族に狙われ、逃げ出すが反撃に成功して彼らを吊るし首にした。その機を選んで支持者たちを通して統治する政府をつくり安定した支配をおこなった。完全に文芸の保護者となり、画家と彫刻家の美術アカデミーを主宰。若きミケランジェロが短期間だが、そこで学んだ。自身が注文するより仲介人になることを好んだ。彼の浪費でメディチ銀行は危機になったが、美術家への財政支援よりラウレンツィアーナ図書館の書物、別荘の古代彫刻、宝石、コイン、メダルの収集のためだった。彼はなんの団体も設立していなかった。死後2年で彼の黄金時代は外国軍隊の侵入と地方領主の小競り合いで消えうせ、フィレンツェの共和主義者たちによって息子のピエロも追放されメディチ家もさることになる。

・ルカ・パチョーリ
 パチョーリは初期ルネサンスの最も才能に恵まれ影響力を持った画家のひとりであったピエロ・デッラ・フランチェスカの徒弟の一人になった。関心は絵画より科学・数学・幾何学・比例と遠近法という技術とその応用にあった。ローマで教皇秘書官で絵画と遠近法の指導的人文学者レオン・バッティスタ・アルベルティの弟子兼友人となり、数学と幾何学の独自の研究をつづけた。その後フランチェスコ修道会に入り、ベルージャ大学の数学の教授になった。その後自分の全体験を一冊にまとめた「算術、幾何学、比及び比例に関する全集」は新しい知識はなかったが、15世紀末の数学的知識を編纂したものだった。ここで複式簿記の記述もいれたのでパチョーリは会計学の父といわれる。この全集の名声でミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに招かれた。そこでレオナルドに算術と幾何術を教え始める。レオナルドに触発され「デ・ディヴィーナ・プロぽるてぃオーネ(神聖比例論)」を執筆し、数学ことはあらゆる科学と学問の指標であり続けるとしている。比例の永遠の真理からクイズや手品の方法の紹介の本もかいている。

・サンドロ・ボッティチェッリ
1445年フィレンツェのなめし皮業者夫妻の8人の子どもの7番目に生まれたボッティチェッリは、金細工師として修業をはじめたが、絵を描く方が好きで、1460年ごろフラ・フィリッポ・リッピの工房に入った。リッピはコジモ・デ・メディチなどを顧客に持つ高く評価された画家だった。彼のところで線描画をみにつけ、生涯それに磨きをかけた。親方になりメディチ家との交流がはじまり、注文にこたえて多くの作品をつくった。「三王礼拝」にはメディチ家の人々の他にボッティチェッリの自画像もかかれている。この絵が教皇シクストゥス4世の関心をひき、ローマでシスティーナ礼拝堂の仕事をした。フィレンツェに戻ると、メディチからの定期的な注文の他に中上流階級が自邸を飾るための美術品の仕事をした。祭壇画や聖母子画像の他に世俗画も注文されて描いた。彼の代表作「春」と「ヴィーナスの誕生」は神話を主題とした大作で、人物像は等身大である。遠近法は知っていたはずだが、自分の本領である様式化した描き方をとっている。ダンテの「新曲」の挿絵にこって、多くの時間を費やしたこともある。1490ねんごろフィレンツェには修道士ジロラモ・サヴォナローラがあらわれ、古典的主題の美術は異教異端であるとみなした。ボッティチェッリも彼を支持して、黙示録的作品を残している。晩年まで彼の様式は不変だったが、ミケランジェロやダ・ヴィンチの革新的作品に比べて古ぼけてみえて、晩年には流行遅れとみなされ、その作品は支持を失っていた。彼の作品が再評価されるのは、1874年ジョン・ラスキンによるものである。

・ジョスカン・デ・プレ
 出自ははっきりしないが、北フランスのピカルディーエノーに生まれ孤児になった。1477年にエクス・アン・プロヴァンス講釈柄聖歌隊に現れたのがはっきりした記録だ。歌手兼作曲家として稼ぎのよい地位をさがして、パリ、フェラーラ、ハンガリーなどですごし、1483年にミラノのスフォルツァ公の聖歌隊におさまった。公の弟司教のアスカニオ・スフォルツァにつかえてローマへ行き、教皇庁聖歌隊にはいった。その後は再びスフォルツァにつかえ、1499年にミラノがフランスに征服されたときフランスに逃げ、数年後イタリアに戻りフェラーラ公エルコレ1世につかえる。疫病が発生したのでフランスに逃げ帰り、およそ50歳で生誕地に近いコンデ・シュール・レスコーで生涯を終える。移動することで当時の二大楽派、フランスーフランドルの装飾的なポリフォニー(多声音楽)とイタリア様式のモノフォニー(単旋律)を結び付けた。史上初の楽譜の印刷にジョスカンの作品が「和声声楽百選」としてとりあげられ、彼の名声は確固たるものになる。70歳になるまでに約370曲を作曲した音楽界のスターになったのである。

・アルドゥス・マヌティウス
 グーテンベルグの活版印刷から10年でヴェネツィアに印刷所が生まれ、やがて淘汰されていった。1480年代末に教皇領出身で人文学教育をうけたマヌティウスはやってきて、教師をしながら人脈と資金を調達し、印刷所を開いた。彼の目的はギリシア文学の保存である。古典ギリシア語のための鋳型フォントをデザインし、アリストテレスの全集を出版した。それは注釈や校訂にまみれていない標準版になっていて、非常によみやすかった。その後ホメロスなど合計58点が刊行され、そのうち30点が初めて刊行されるものだった。しかし古典ギリシア語を読める人は少なく商売にならなかったので、同時代の作家のラテン語とイタリア語の本を出版するようになった。その過程で、イタリック体と、八つ折本を発明した。この持ち歩ける本は本を図書館から解放した。また句読点を近代的な形にととのえたり、ノンブル(ページ番号)の慣行をはじめたのも彼である。彼の印刷所は息子と孫によって続けられ、900点以上の書物が売り出され、その多くが数千部発行された。アルドゥスの最も大切な望み、古典の維持は達成されたのである。

・レオナルド・ダ・ヴィンチ
 彼の作品で完成したのは12点のみ。教皇レオ10世は「この男は何も成し遂げないだろう、作品にとりかかってもいないのに、作品の仕上げについて考えているのだから」といった。
レオナルドの生涯は3期にわけられる、トスカーナ田舎の公証人の庶子にうまれて徒弟時代から青年美術家として開化するまで、30歳くらいでミラノ公につかえ宮廷美術家、舞台装置デザイナー、技師としてすごした壮年時代、ミラノが占領されてからの放浪時代からフランス王フランソワ1世の客となった晩年。その過程でかれは注文を途中で放り出すことで有名になっていった。同時代人は彼の絵画技術や自然への洞察について激賞したが、彼自身は自分の才能のリストの筆頭に舞台装置デザイナーと軍事技師をあげている。近代の彼の名声は、彼が残した手稿による。アイデアを書き留めたりスケッチをしたりしたノートである。中世のスコラ学の演たん法はすて、自然を直接的に注意深く観察しなければならないという確信を広げた。個人の体験を重んじるレオナルドは人文主義も否定している。

・ジョアン2世
 ポルトガル王ジョアン2世は、敵からは暴君、同胞からは無欠王と呼ばれた。ニッコロ・マキャヴェッリの君主論に描かれる権謀術数を使った人物。1481年に即位したとき、父親アルフォンソ5世のアフリカ遠征で国庫はからっぽだった。政敵を注意深く一掃したあと、彼は貴族からとりあげた権利を都市の商人たちに交易の自由として与えた。征服ではなく、伯父のエンリケ航海公の導きのもと、遠征隊をおくって航海ルートを確立、要所に要塞や交易センター、街を建設した。交易で小さなポルトガルは栄えたが、スペインとの間に植民地争いを起こした。アルカソヴァス条約でカナリア諸島がスペインに与えられ、そこより南はすべてポルトガル領とされた。しかしコロンブスの大陸発見により、あらたな事態がうまれ、トルデシリャス条約で境界線は1500キロ西にうつされた。このとりきめでポルトガルはブラジルの多くの部分を得た。ポルトガルからインドにいくルートを熱心に開拓し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマによって達成された。

・アントニオ・リナルデスキ
 トスカーナの小貴族の家に生まれたアントニオは、父親から卑劣な息子と呼ばれた。おそらく暴力をふるっていたのだと思われる。相続で義理の母や異母妹と争ったあと、得た遺産を酒ととばくで浪費してしまった。梅毒で頭がおかしかったという説もある。1501年7月11日、ばくちで金をすってしまった怒りから、ロバの糞をサンタ・マリア・デリ・アルベリギ教会の聖母の壁画に投げつけた。この罪で市の牢獄バルジェッロへ連行され、そこの窓から首を吊るされた。この時代のフィレンツェはメディチ家が追放され、説教師サルヴォナーラが処刑され、不安定な時代だったので、普段ならここまでの罪にとわれなかったのに殺された。彼の投げた糞のあとが洗浄のあとも絵に冠のように残っていたことから信仰が生まれ、礼拝堂まで建設された。事件は忘れ去られたが、1502年にフィレンツェの二流画家がこの事件を9コマの漫画のように絵にして残している。その中で悪魔がささやき、最後は天使が悔い改めた彼の魂を救済する説教のような内容である。


4突然の衝撃 1490~1515
2世代の安定は、1500年が近づいてくるにつれ急速に失われつつあった。特にスペインでは変化はすさまじかった。780年を費やしたレコンキスタが完成。フェルナンドとイサベルはスペインにキリスト教統一体を創りたいと考え、1世紀にわたってキリスト教徒、ムーア人、ユダヤ人によって構成されていた社会組織の解体にのりだした。ユダヤ人に改宗をせまって追い出した。コロンブスの新大陸への出資したが、その価値が人々にわかるのは1世紀後だった。イタリアではロレンツォ・デ・メディチが亡くなり、勢力の均衡が崩壊しはじめる。スペインを追い出されたユダヤ人は最初ポルトガルに次にイタリアにおしよせたが、一番寛大な態度をとったのはオスマン・トルコのスルタン、バヤズィト2世で艦隊を派遣して、彼らをうけいれた。トルデシリャス条約に不満なイギリスのヘンリー7世は独自に探検隊を派遣。ニュー・ファウンド・ランドの周辺を発見。空白地イタリアにはフランスとスペインが押し寄せ、一時教皇庁もスペイン人の手におちた。

・クリストファー・コロンブス
 ジェノバの毛織物業者でチーズも売っていた男の息子コロンブスは、若いころに航海に出た。多くの海をまわり、リスボンで地図製作者になっていた弟の知識と自分の航海の体験を結び付けて、西へ航海してインドに到達すると考えた。彼の航海術には大きな信頼がよせられたいたが、西航路に出資してくれる人はいなかった。ついにスペインのフェルナンドとイサベルを説得し、サンタ・マリア号と他の2隻で出発した。1492年のことだった。
今日のハバマのどこかに到達し、イスパニョーラ島に要塞を建設して帰国。香辛料はみつけられなかったが、スペイン人は彼を英雄として歓迎。次の航海には1200人の志願者と17隻の船がたやすくあつまった。コロンブスの探検は第4次までおこなわれたが、ついにインドではないという証拠は無視したままだった。航海術には優れていたが、海図のよみとりや探検家としての腕はそれほどでもなく、行政官としても最悪で、現地人に対して無頓着になったり残虐になったりを繰り返した。コロンブスは植民地での成果はあげられず、打ちひしがれた生涯を終えたが、世界はかれのビジョンから前に進んでいた。1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達。その3年後、イタリア人アメリゴ・ヴェスプッチが自分で航路を計算した結果、コロンブスは間違っていた。発見されたのは新大陸だと結論した。

・ジョン・カボット
 少年時代にヴェネツィアに連れてこられ、1475年に市民権を与えられたジョン・ガボットはレヴァントでの商取引を始めた。そしてシルクロードがキリスト教徒にとざされていることをしった。1488年彼の商売は破産しヴェネツィアから逃げ出した。放浪の末バレンシアにおちついたころ、クリストファー・コロンブスの凱旋をしる。彼はコロンブスが航海した距離では中国に達していないと確信、スペインでは受け入れられなかったのでイギリスにいって、必要な資金をあつめて、ヘンリー7世を説得。最初の航海は準備不足で乗組員が反乱しただけだったが、1497年出港、5週間で陸地に到達し1か月沿岸を航海して戻った。これを「ニュー・ファウンド・ランド」と主張した。しかし原住民は発見できず、コロンブスほど意味のある発見とはおもわれなかった。しかしブリストルの漁師たちにとってはタラのかご網漁のできる漁場だった。彼はイギリスで名士になったが、次の大規模な探検隊を組織しての航海でかえってこなかった。おそらくバカリャオスで没したと思われる。

・ジロラモ・サヴォナローラ
 サヴォナローラは地元のフェラーラ大学をでると1475年こっそりボローニャ修道院に入ってしまった。まじめな息子が故郷の町におちつくことを夢見ていた両親はがっかりしたが、サヴォナローラは、キリストが戦う騎士の一人として彼を選んだことを誇りに思うべきとといた。1482年、フィレンツェに送られ、ドメニコ会のサン・マルコ修道院で倫理学を教えたが市民への説教も行った。北イタリア方言の彼の言葉はフィレンツェの都会人に嘲笑された。ボローニャに戻って説教技術を磨き、再びフィレンツェに呼び戻された。彼はフィレンツェの裕福な市民の、生ぬるい信仰、貧欲、官能的快楽を叱責し、寡頭制をすてよと叱責した。そして自分を通してキリストが話しているのだといった。ロレンツォ・デ・メディチが亡くなって不安定なフィレンツェにキリスト教徒の週末を予告する1500年が目前にせまり、サヴォナローラの支持者はたちまち熱狂的に増えていった。彼はぜいたく品を広場で燃やし、不道徳な行動を密告させた。サヴォナローラはフィレンツェ市は髪の怒りを呼ぶと予言。1494年にフランス王シャルル8世が来た時には喜んで迎え入れた。シャルルはフィレンツェに害を与えずに去り、人々は修道士と神の絆を信じた。1495年教皇がサヴォナローラに出頭を命じて神の啓示を議論しようとしたが、これを拒否。1497年に破門された。フィレンツェではサヴォナローラの支持者とフランチェスコ修道会が対立。火の審判をするはずが雨で中止になり、怒った群衆がサヴォナローラを捕まえて拷問の末異端として絞首刑にして焼いた。当局は支持者を追放して著作は押収された。

・ヤコブ・フッガー
 ルネサンスの最も富裕な一族は低い身分出身のことが多い。フッガー家はその中でも特につつましく、始祖ヨハネスは小さな町の織物職人だったが、1367年バイエルンの首都アウクスブルクに移住して布地の輸入に手を広げた、息子の一人ヤコブが成功してアウクスブルク商人組合に役職を得た。ヤコブの息子ウルリッヒとゲオルクはハプスブルグ家のフリードリヒ3世、その息子マクシミリアン1世、そして皇帝親子がブルゴーニュを訪問する際の彼らと随員たちの服装一式を請負、その感謝のしるしとして騎士に叙され、勲章を与えられ、金融業を営む許可を得た。末息子のヤコブは元は聖職につくよていだったが、1473年ウルリッヒが弟をヴェネツィアに派遣して腹式簿記などの商業慣行を学ばされることにした。ヤコブはその知識で家業の経営の収益性を試算した。やがてインスブルックでの家業を任される。彼はハプスブルグ家の地方の当主に相当額を貸し付け、かわりにアルプスの豊かな銀行の経営権を手にした。1490年代には一族の商売のほとんどを運営。エジプトでふなづみした原綿をヴェネツィア経由でアルプスを越えてアウクスブルクへ輸入。絹や香料といったほかの輸入品を加えていった。彼は低地地方やスペインへ直接これらを運ぶ船をつくり自分の利益を鉱物採掘業へつぎこんだ。そしてハンガリー・ボヘミア・ジュレジエンで生産さえる銀と銅の大部分の支配権を獲得した。商業網を確立すると同時に銀行から諸侯への大金の貸し付けを専門にした。簿記・信用状・為替手形に関する専門家である彼は、フッガー銀行の諸支店と倉庫・鉱山アウクスブルクの本店事務所を結ぶ専用の通信事業を立ち上げ、彼のクーリエたちが政治経済の錯そうした変動を支店長たちに知らせてまわるこちになる。フッガー家の財政力は16世紀にハプスブルグ家を権力の座におしあげた。マクシミリアン1世が亡くなったあと、選帝侯の一部がフランス王フランソワ1世に買収される事態があったが、ヤコブが大金を集め、当初の予定通りカール5世を皇帝にした。ヤコブが亡くなるまでカール5世はフッガー銀行を国庫のように扱った。教皇庁が1517年にサン・ピエトロ大聖堂再建資金をあつめるときに、ドイツの信者に免罪符を売るのにも協力し、半分の手数料をとって信用状でローマへ資金を送るなどした。彼自身は敬虔なカトリックでアウクスブルク中に青銅を建設しフッゲライと呼ばれる高齢者用の事前住宅を建設した。しかし、免罪符によってルターに攻撃され、フランソワ1世などから、カール5世を強大な君主から世界にまたがる国家の長にしてしまったと非難された。彼の死後フッガー家は歴史において敗者となる。

・デジデリウス・エラスムス
 エラスムスは司祭と医者の娘の間の2番目の非嫡出子としてロッテルダム生まれた。両親は教育を与えてくれたが、亡くなると親戚たちは子供らを修道院送り出した。大学教育をうけられなかったエラスムスは、修道院で古典文学に慰めをみいだして、14932年に司祭に叙任されたときは古典ラテン語学者で洗練された作家だった。ラテン語の知識を買われてカンブレーの司祭が彼を一時的に雇用してくれたのを機会に修道院をでると、二度と戻らなかった。1495年にソルボンヌに入学するがラテン語のレベルが低くて退屈してラテン語入門書をかいたり、個人教師をしたりした。1499年招かれてイギリスのオックスフォード大学で人文主義者とのかかわりをもつ。そしてよりキリスト教の原点に近づくためギリシア語を学ぶことを決意。フリーの教師となって独学でギリシア語をマスター、3年間イタリアで働いた。このときギリシア語の古典にもふれている。1508年イギリスへいく途中に「痴愚神礼賛」に着手。トマス・モアを楽しませるためにかいたという風刺作品集だ。エラスムスはスコラ哲学者たちが無益な問題で悩んでいると批判。修道士は意味のない行為ばかりしていると批判。ギリシア語から訳した聖書を教皇位献呈するなどした。1520年までにエラスムスは大陸の一流の人文主義者ほぼ全員と交流のある名高い学者になり、1536年に彼が亡くなったとき、その著作は、ヨーロッパで流通していた全書籍の10~20%を占めるといわれている。激化する宗教論争では穏健派を貫き、融和を図ろうとしていたが、両陣営から責められて、晩年は自分のカトリック信仰を擁護するのに費やした。ルターはエラスムスは臆病といい、カトリック陣営は、エラスムスの主張はルターと似ていると批判した。

・ニッコロ・マキャヴェッリ
 人当たりのよい公務員で劇作家、哲学者であったマキャヴェッリの目的は「市民に互いに愛し合い、党派争いをやめ、個人の計画よりも公共善を選ぶ義務を負わせる」ことだった。父親は200年にわたりフィレンツェの共和制を支えてきた市民で、メディチ家の支配をきらって貧困のなか子どもを育てた。そのためマキャヴェッリはギリシア語教育はうけられなかtった。しかしラテン語教育により古典世界を愛し、特に共和制ローマで公務への酸化のみが人間の真の価値とする意見を奉じた。メディチ家が去ると一時的に活躍するが、外交官や諜報員としては、率直過ぎて優秀とはいえなかった。メディチ家が戻ると、彼は田舎に隠遁させられ、著作生活を送ることになり、「君主論」もこのころ書かれた。君主論では、君主というものは国家の安全のため嘘をつき、二枚舌を使い、脅迫も殺人も犯さねばならいといっているが、実はこれは、現実の叙述である、この本は古典の世界の実例を現代に当てはめたものなのだ。友人らの働きかけでジュリオ・デ・メディチは一時的に彼を許し、「フィレンツェ史」を編纂させる。公務員に戻ったマキャヴェッリはメディチ家の不興をかわない歴史をうまく編纂し、亡くなった。

・トンマーゾ・インギラーミ
 トンマーゾはトスカーナ地方都市ヴォルテッラに小貴族の子として生まれ2歳で孤児になった。親切な伯父にフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチに預けられ、修辞学と芸術教育をうけた。古典研究の才能をあらわし13歳で教皇庁宮廷へ紹介とコネを十分につけられておくられた。ラテン語古典の完全な教育をうけ、20歳のこと朗唱技術で認められる。そして古典演劇をはじめ、セネカの悲劇「ヒッポリュトス」の女主人公パイドラを演じて大人気になる。芝居のような政治の世界でも歴代教皇に気に入られ出世。聖職者請願はしなかったが高給取りの教会職員メンバーとして枢機卿団秘書やヴァチカン図書館長なども務めた。特に信心深くはないが、ルネサンス・ローマの強要の頂点を体現していた。がくしゃというより役者であり、著作はないが、ラファエロが描いた紙に啓示をうけたかのような芝居がかったポーズをとった肖像画と、馬車にひかれたとき奇跡的に助かったのを記念して無名の画家にかかせた奉納画がのこっている。

・アルブレヒト・デューラー
 ニュンベルグに生まれたデューラーは、1490年に徒弟修業を終えると4年間ドイツ西部の工房を訪ね、木版画師としての腕を磨いた。凝るまるで銅版画師マルティン・ジョンガウアーのドイツの情感とネーデルランドの自然主義という最上の要素を結合させた作風に影響をうけた。1494年に結婚すると1年間イタリアにいき、イタリア美術の神話的主題と古典的比例を学び、水彩と銀筆で繊細で細部までないがしろにしない風景画と自然の秀作を多数完成させた。それまではそのような美術は完成品の準備段階とみられていたが、デューラーは自然世界を背景から価値ある美術主題に昇格させた。ニュルンベルクに戻ると、注文をうけてから作るのではなく、前もって在庫を用意するという新しい工房のモデルを作った。それまでより美しい銅版画や木版画をつくり、キリスト教的場面や宗教的場面を作ってたくさん売りまくり名声を高めた。モデルブックは使わず、美術は自然にもとづくとした。1505年に再びイタリアを訪れたときは有名人で、イタリアの収集家たちがドイツの風景や急こう配の屋根を持つ建築のかかれた彼の版画をほしがった。ヴェネツィアではジュンティーレ・ベッリーニに感銘をうけ、「ロザリオの聖母」を完成させたが、皇帝マクシミリアン1世と教皇ユリウス2世を同じ高さにかいて物議になった。ドイツに戻ると人物画の注文を多く受け、テジデリウス・エラスムスやカール5世から注文を受けた。個性を伝える先駆的画家として自身の肖像画も13歳からたくさんかきのこしている。教育はかぎられていたが、数学者、作家であり、死ぬ間際には彼の知識を記録した。彼の版画はいまだに流通し、影響を与えている。ドイツにルネサンスを届けた人物である。

・ニコラウス・コペルニクス
 ポーランドのトルン市に生まれたニコラウスは若くして孤児になったが、母方の叔父に育てられ、叔父はのちにエルムンドの領主司教になった。叔父のおかげで、コペルニクスはクラクフ大学でまなび、イタリアに行って1503年フィラーラ大学を教会法で卒業、留学中に医学も学び、非公式に医者として治療をおこないながら、ワルミアの首都オルシュティンで大聖堂の聖堂参事会員および市の行政官をつとめた。領地を徹底的に調査して包囲されたときには、首尾よく市を防衛し、神聖ローマ帝国のいずれの小国家が貨幣鋳造権を有しているのかをつきとめた。能力の高さと縁故のよさから司教選抜候補となった。経済と貨幣鋳造の改革を探求して悪貨は良貨を駆逐するのもとになる考えをおもいついた。ただし、彼の真の情熱は天文学であり、フェラーラ大学では天文学の講義に出席し、ポーランドに戻るとオルシュティン城に観測所をつくった。観測と計算結果から太陽中心説を考えついて「コメンタリオルス」という本をつくり友人に配った。この理論を1531年までかかって完成した理論にした。ヨーロッパの辺境で新しい宇宙論を研究しているものがいると何人かの学者や司教が説明を求めるようになり、1539年に数学者ゲオルク・ヨアヒム・レティクスややってきて、本を出版するように説得した。コペルニクスは3冊の本を書き、1543年「天体の回転について」を書いてまもなく亡くなった。このなかで地球は太陽の周りをまわりながら自転しているとしたが、軌道が完璧な円だとしてあった(現実とあわない)のと、序文に内容がフィクションだとルター派の作家がかいたため、それほど衝撃は与えなかった。しかしその重要性に気が付くものがすぐに現れ、3年たたないうちに本は異端として破棄すべきと審問所に告発された。

・イザベッラ・デステ
 フェラーラ公エルコレ・デステ1世の長女に生まれたイザベッラは、夫や同時代人より長生きしてルネサンスのプリマ・ドンナと呼ばれた。16歳でマントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガ2世と結婚。イタリアで最も洗練された中規模の宮廷を率いる立場になった。マントヴァは専門的技術と人文主義的知識を併せ持った画家アンドレア・マンテーニャを1450年代末から宮廷画家にしていた。フランチェスコの妹が女主人であるウルビーノ宮廷の特質を取り入れて文芸保護の手を広げ、ゴンザーガ家礼拝堂聖歌隊を創設。イザベッラの依頼で詩に覚えやすい曲がつけられ、これが「フロットーラ」と呼ばれる歌曲形式になった。15年間で7人の子どもにも恵まれた。夫は傭兵隊長として留守がちで、彼女は君主役も務めた。限られる家計のんか収集と装飾とパトロネージに関心を持ち続けたが、壮大な事業を起こすような余裕はなく、仕方なくほかの人のために作られた美術品を収集した。これが中古美術市場のはじまりとなった。彼女はラテン語もおぼずかなかったが、古典特に新プラトン主義に熱中した。ロレンツォ・デ・メディチの後継者たらんとしたが、資金力と影響力にかけうまくいかなかった。息子が玉座についてからは、ローマで2年間を過ごし、次男を枢機卿にするべく運動して成功。しかし1527年にローマを占領したハプスブルグ家に人質にされるところだった。三男のフェランテの調停でようやく逃げ出したが、古典美術の多くを失った。マントヴァに帰還して数年間は宮廷を運営したが、徐々に美術家や廷臣たちに見捨てられ、60代でソラローロの封土にひきこもり、二千点の美術品に囲まれて最後の日々を過ごした。

・チューザレ・ボルジア
 ボルジア家はスペインのバレンシア出身だが、ローマの週航海で財を築いた。チューザレの大叔父と父は教皇で、彼の父アレクサンデル6世は金で教皇位を買って、腐敗した淫蕩な生活習慣を変えることも、恥じることもない人物だった。チューザレは最初宗教界で出世させようと枢機卿にされたが、兄がジョヴァンニが不審な死をとげたため、枢機卿を放棄してフランス王ルイ12世にヴァレンティーノ公に任命された。そして教皇領とは名ばかりで手のつけられない小君主が林立するロマーニャを軍事力と悪だくみ、裏切りで制圧して領主たちを次々と殺した。さらにマルケ地方も同じように制圧。教皇はチューザレに彼が制圧した土地を与えた。イタリア中部に突如あわられた新国家は50年の勢力均衡をやぶり、チューザレはミラノをそしてフィレンツェを占領した。フィレンツェはわいろでお引き取り願った。このときの交渉の代表団にマキャヴェッリが同行してチューザレの果断な性格とフランス・スイス・イタリアの舞台を懇請した彼の軍隊の無敵な様子に驚愕している。1503年、突然教皇アレクサンデル6世がなくなり、同時期にチューザレも病に倒れていて対応がおくれ、教皇位はボルジア家の仇敵の手におちる。チューザレは公領を奪われ、ナポリに逃げるが、とらえられバレンシアに送られる。2年後に脱獄したが、ナヴァラの国境での小競り合いで戦死した。ボルジア家は消え去ったが、チューザレのおかげでロマーニャは無政府状態を脱し、秩序ある統一国家への道がひらかれた。なによりマキャヴェッリの「君主論」に影響を与えたことで、永久的胃酸を残したのである。

・ミケランジェロ・ブオナローティ
 15歳のときミケランジェロは師匠の紹介でロレンツォ・デ・メディチのプラトンアカデミーに入ることができた。人文主義者たちが古典の文学や美術について議論するこのアカデミーがミケランジェロがうけた唯一の教育であった。ミケランジェロが彫刻を至上のものとしたのは、ここの影響であるが、ラテン語やギリシア語は教わらなかった。ロレンツォ・デ・メディチが死ぬと、このアカデミーも消滅した。サヴァナローラの支配下のフィレンツェはミケランジェロにとって、彼の「バッカス」彫刻を官能的とする批判のため危険だった。彼は「ピエタ」で永続的な成功をおさめた。さらに「ダヴィデ」の立像をフィレンツェ政府の依頼でつくった。古典の男性裸像をこえる傑作といわれた。ローマにもどってユリウス2世の依頼でシスティーナ礼拝堂の天井画に創世記を描く、すぐに傑作といわれた。フィレンツェで彫刻の注文をうけていたが、若いころから怒りっぽかったのがますます怒りっぽくなり、完成する彫刻は少なくなっていく。60歳でシスティーナ礼拝堂に戻り最後の審判をかいた。彫刻表現が導入されたこの絵は、イタリア美術のルネサンスの終わりを画するものとされた。

・バルダッサーレ・カスティリオーネ
 マントヴァ侯国の裕福な貴族で君主ゴンザーガ家と密接な関係があったカスティリオーネは子どものころから宮廷サークルで成功するように訓練された。最高の人文主義教育をを与えられたが、大学で法学を学ぶ道は選ばず、ミラノのスフォルツァの廷臣見習いとして仕えた。父親がなくなり、スフォルツァが亡くなるとマントヴァに戻りフランチェスコ・ゴンザーガ2世と妃イザベッラにつかえて宮廷教育をつづけた。外交使節に使われたが、フランチェスコの妹に説得されてウルビーノに移る。そこでイタリアで最も輝かしい思想家たち、ピエトロ・ベンボ、ジュリアーノ・デ・メディチ、ビッビエーナ枢機卿の相手をして、ラファエロの親友となった。夜会や芝居上演・音楽会、討論コンクール、朗読会を企画し、牧歌詩や長い手紙を書いた。ウルビーノはヨーロッパの最も洗練された教養のある社交の場のように思われたが、1516年メディチ家のものをウルビーノ公にしようと画策する教皇レオ10世によって、主人が追放され、カスティリオーネも従った。何もすることがなくなった彼は結婚して「宮廷人の書」という大作を書いた。会話形式で完璧な宮廷人について議論したこの本は出版されてから100年たたないうちに何十回も版を重ねるヒット作になった。これはイタリア式マナーと呼ばれ、やがてジェントルマンの考え方に受け継がれていく。彼自身は1520年に若い妻を亡くし、聖職に入り、教皇特使として派遣されたスペインで疫病にかかりなくなった。

・ラファエロ
 ウルビーノの宮廷画家を父に持つラファエロは、イタリア一洗練されたているといわれている宮廷で美術と貴族階級の社会的文化的環境と接触することになった。11歳で孤児になり1500ねんごろにペルージャにうつり、イタリアで最初に油彩で描いた画家のひとりペルジーノの弟子になったが、間もなく師匠そっくりの作品をつくれるようになってしまった。フィレンツェの美術ブームの末期が過ぎる前の1504年ごろウルビーノ妃の推薦状をもってやってきたラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けながら聖母子像をかいたり、モナリザの構図をとりいれた肖像画を描いたりした。1507年には美術世界の震源地はフィレンツェからローマにうつり、ラファエロは多くの注文を受ける売れっ子だった。ハンサムで礼儀正しく穏やかな都会人であった彼は、ローマではミケランジェロの影響もうけている。いろんなものを取り入れながら調和させ、ルネサンス最盛期の作品を多く残した。37歳で熱病で突然なくなったが、女好きといわれていたのでベッドでがんばりすぎたとのうわさがたった。

・レオ・アフリカヌス
 レオはベストセラーになった旅行ガイドブックの著者で、二流のセレブのようなものだったが、その生涯はよくわかっていない。グラナダで生まれたがイスラム教徒だった一家はモロッコに追い出され、おそらくフェズのアル・カラウィン大学で生んで、14歳までには長期旅行でコンスタンティノープル、ベイルート、バクダットに旅したと思われる。1509年から10年間かけてフェズのスルタンの大使の叔父とティンブクトゥーに行きソンガイ皇帝の代表団とあった。2年後にティンブクトゥーを通過してサハラ沿いに東に旅してエジプトに行き、北アフリカ海岸沿いにモロッコに戻ったという。このたびは伝聞かもといわれている。確かなのは1517年にコンスタンティノープルにモロッコ大使としていたこと、ナイル川のロゼッタにすすみ、オスマン・トルコがエジプトを征服するのを見、紅海をわたりアラビアへ行った、おそらく聖地巡礼のためだろう。その帰路にクレタ島の近くでキリスト教徒の海賊にとらえられ、地図や原稿から大物とみなされ教皇レオ10世に送られる。1年以上囚人生活をおくったあと、キリスト教徒に改宗して、そのあとはレオ・アフリカヌスとよがれた。ローマとボローニャでアラビア語を教えるかたわら、のちに「アフリカ誌」と呼ばれる原稿を書く。本人は出版しなかったが、1550年にヴェネツィア人の画家がこれを出版して大ベストセラーになった。しかし、本人は記録がいっさいなくなっており、アルプスの北に旅行したとも、マグレブに戻ってイスラム教徒にもどったともいわれている。


5旧秩序の崩壊 1510~1535
マキャヴェッリのいうとおり、新秩序の導入の指導は多くの困難がともなった。
イタリアの勢力均衡はうしなわれ、フランス、スペイン、スイス、ドイツの兵が無秩序に半島を渡り歩き、都市国家はなすすべもなく蹂躙されイタリアルネサンスの多くが略奪にあった。教皇庁はイタリアの勢力争いに熱中しすぎ、古典に傾倒しすぎとみられ、王家や民衆にみすてられ、フランス、スペインでは王たちはその反感を国家建設に利用。ルターの始めた宗教改革は印刷業の助けをかりて広まり、スカンジナビア諸国やバルト海東岸の国がこれを採用した。(ルター自身はもっと個人的信仰をといたのだが)イギリスはヘンリー8世が離婚をみとめられなかったのを理由にイギリス国教会を設立。ローマと決別した。戦争はテクノロジーの進歩でマスケット銃、大砲鋳造、要塞建設などの資金力があるものが優位にたったが、印刷業がもっと弱い権力にも優位に働き均衡は保たれた。

・ハイレディン・バルバロッサ
 卑賤の出自から無限と富と権力を得た海賊。父親は1462年にオスマン・トルコによるレスボス島制服に従ったシバイ(騎士)で報奨として島に封土を得た。キリスト教徒のギリシア人の妻との間に6人の子どもをもうけ、陶器製造をはじめた。ハイレディンの元の名はフズルで3男であった。家業は発展し、ささやかな船を次男のオルクあ操って陶器を売ったり、貿易をするようになり、ついでに海賊業もはじめた、フズルも手伝うようになった。当時の地中海はヴェネツィアや聖ヨハネ騎士団といった古くからの勢力がいて、危険だったが、兄弟はエジプトやトルコのエリート層にパトロンをみつけガレー軍船を装備すると西地中海でスペインの占領地を荒らしまわった。キリスト教徒に非常に残忍だったので、大いに恐れられ、兄は赤ひげからバルバロッサと呼ばれた。兄が死んでからはフズルが髭を赤く染めてバルバロッサの名をついだ、兄をうわまわる活躍をみせ、シチリア島やナポリに軍事基地をつくり、フランスのトゥーロン港を9か月併合し、フランソワ1世から金約3メートルトンの支払いをうけるまで居座った。オスマン・トルコは彼をアルジャの総督に任命し、提督の地位を与えた。1545年に多くの略奪品と妻をつれて引退、イスタンブールで大歓迎され海の王といわれたが、3年後に熱病で亡くなった。海賊にとってスペインは敵だったがイタリアはお気に入りの獲物で、彼らはルネサンスの富を根こそぎ奪い去った。

・ルーカス・クラナッハ(父)
 画家の息子として生まれ、ニュルンベルクの来た80キロほどのクローナハの父の工房で修行したあと、1501年ごろウィーンに移り、人文主義者たちと交流し肖像画を描いた。劇的な背景と人物が競って注意を引く、印象的な様式である。1505年、クラナッハは神聖ローマ皇帝を選出する任にあるドイツの7人の選帝侯のひとり、ザクセン公フリードリヒ3世の宮廷画家としてヴィッテンベルグへいった。王侯貴族の肖像画、祭壇画、狩猟の場面などの他に貨幣や衣装のデザイン、謝肉祭のマスクなどもつくった。どれも驚くべき速さであった。そこでルターとあって親友になった。彼の結婚式で花婿の付き添いも務めた。ルターの著作の挿絵や宣伝用の戯画も作成した。ルターをはじめとする宗教改革をおこなった人物たちの肖像画も多数のこしている。彼の工房のメンバーたちは、彼の息子をはじめとして恐るべき速さで美術品を生産した。需要にあわせルターの肖像画の複製を何千枚もうみだした。ルーカスの女性裸像は、それまでの理想化された女性裸像や、裸であることに意味があるための象徴等をいっさいとりさったもので、一部でみだらと言われたが人気になりやがて認められた。宮廷画家として3つの選帝侯につかえたほかに、カトリック、プロテスタント問わず注文をうけ、最速でしあがげることで多くの収入を得た。そのほかにヴィッテンベルグの市長を務め、薬剤師の許可証をとってビジネスでも成功。プロテスタントの印刷物をだす出版社を友人と設立してこれも大成功した。(ルターは著作の支払いを一切うけなかった)1550年に工房を息子に譲り、1552年にワイマールで亡くなった。

・トマス・モア
 ロンドンの裕福で影響力のある家柄で生まれ育ち、オックスフォードでリベアル・アーツを学び喜劇の習作をかいて、演じて演劇の才能をみせた。学友たちは卒業後イタリアで文学をまなんだが、モアは法学をまなんだ。人文主義をすべて許容はしなかったが、古典に精通し古代ギリシア語を学んでデジデリウス・エラスムスと風刺詩を作って楽しんだ。聖職者になるか悩んだが、禁欲できるか不安でやめたとエラスムスが書き残している。1505年に結婚し、4人の子どもをもうけた。妻が死んでからすぐに後妻と結婚している。1510年から1518年にかけていくつかの役職でヘンリー8世に仕え、1529年からは大法官になった。1516年には「ユートピア」を出版。ユートピアは彼の造語である。地理的にも道徳的にもどこにもない理想世界を想像した、半ば風刺、半ば哲学であった。国王の顧問の一員としてプロテスタントの書物を禁止し、ルター派運動に反対、異端者を迫害した。しかし、王は離婚したいために英国国教会を設立。モアは職を辞して沈黙を守ったが、ヘンリー8世の新しい妻とローマとの決別を求める宣誓について、妻はともかくローマとの決別をみとめなかったのでロンドン塔に監禁され、裁判の末に死刑となった。

・マルティン・ルター
 ルターは1505年の7月に落雷にあい、おびえて命が助かるなら修道士になると宣誓した。2週間後にアウグスティヌス修道会に入り、禁欲の標準からかなり厳しいところまで修行した。それでもまだ不十分なのではと悩んでいる彼に修道院長はルターに進学の博士論文執筆をすすめた。彼は聖書を詳細に調べ、神が認めた善行が恩寵をもたらす証拠はないこと。むしろそれは神の恩寵を引き出す利己的行為であり、救済のために必要とおもわせるように協会が作り出したものと結論した。1517年ローマに建設中のサン・ピエトロ大聖堂のための免罪符を売りにヨハン・テッツェルがザクセンにくると、ヴィッテンベルグ大学の教授になっていたルターは95か条の意義を集め、議論しようと呼び掛けた。答えるものはいなかったが、この95過剰は印刷業者たちが複製を印刷して販売して評判になった。ローマは免罪符を疑問視することを異端とし、アウクスブルクの集会にルターは呼び出される。告発側が聖書から免罪符の正当性を裏付ける一節を示せれば、主張を撤回するというルターに役人たちは立腹。友人たちがルターの身を案じてヴィッテンベルグに帰した。1521年にカール5世の前で尋問され、自説の撤回を拒否したため、死刑を宣告された。友人たちが狂言誘拐をおこして、同情した君主がヴァルトブルグ城に彼をかくまった。教会の改革はラテン語を話すエリートの間では議論されては却下されていたが、ルターはドイツ語で書いたため、彼の思想は広まった。エラスムスの新訳ギリシア語聖書からドイツ語訳の聖書を出版し、1522年に出版されると大ベストセラーになった。彼の運動は北ヨーロッパ全域に広がった。神と俗人との間に聖職者という門番を置かないという青写真で彼は主張を続け、ドイツ語の讃美歌をかき、女子の教育を擁護し、夫妻の愛の行為を聖なる行為として、聖職者の結婚をみとめることを主張し、自らも42歳で妻をめとった。

・バルトロメ・デ・ラス・カサス
 クリストファー・コロンブスがスペインに凱旋した時、カサスは9才だった。1年後に父がコロンブスの第2次航海のお土産に持ち帰ったのは、彼専用の先住民の奴隷だった。8年後一家はイスパニョーラ島へのスペイン人移住の波にのり、現地の農園主貴族となり、エンコミエンダ=先住民奴隷を働かせるプランテーションをもった。1510年にバルトロメは聖職の誓いをたて、しばらく聖務と世俗的活動を結合させていたが、次第に新世界の穏やかで物欲のない住民をスペイン人が野獣のように狩って奴隷労働をさせる現実にたえきれなくなり、このような残虐行為を記録して、枢機卿や教皇、カール5世らに訴えた。これは成功して友好的な先住民を奴隷化することが禁止される新法がつくられたが、現地のスペイン人の激しい抵抗にあい、新法を適用しようとした提督は殺され、彼が与えられた土地で先住民とスペイン人がともに働く農園は、ほかのスペイン人の攻撃をうけて失敗。彼自身が南アメリカの教区への赴任を危険としていけない状況だった。結局アフリカからの奴隷をアメリカに運ぶという、もっと悪い状況がうまれただけだった。

・ティツィアーノ
 1516年に偉大なジョヴァンニ・ベッリーニが亡くなると、その後半世紀ティツィアーノは半世紀以上にわたってヴェネツィア共和国の主要な美術家として君臨し、半島中でまた国外で敬意を勝ち得た。特徴は彩度の高い色彩で非常に写実的な質感を表現したこと。均整のとれた構図もつかわなかった。線を指でぼかした人物画をかいた。10歳のといドロミテ地方の村をでて、南に110キロ旅してヴェネツィアについてベッリーニのもとでまなんだ。ほぼ全生涯をヴェネツィアで製作したが、1年間ローマを訪問しミケランジェロにもあっている。イタリアの他の諸都市は何度か、アウクスブルクには2回カール5世に会いに行った。校庭は肖像画を注文し、カールは肖像画を非常に高く評価し、ティツィアーノに注文が殺到した。彼は16世紀の非常に多数の重要人物の肖像画を描いたので、全部を数え上げるのは困難といわれた。

・ニコラウス・クラッツァー
 16世紀初頭にイタリア文化が神聖ローマ帝国、フランス、低地地方、ハンガリーで広範な支持を得たが、イギリスは戦争のためたちおくれていた。ヘンリー8世は大陸の知的サークルで流行している思想や装飾美術においつこうと熱心だった。ミュンヘンでのこぎり職人の息子として生まれたクラッツァーは、1599年にケルン大学で学位を受けた後ウィーン郊外の修道院で天文学を学び、写本を正確に写した博識でエラスムスに感銘を与えるほどだった。エラスムスが彼をトマス・モアと聖職者のカスバート・タンタルに合わせ、彼はアストロラーベや天球技をたずさえてイギリスにわたった。王の時計職人として日時計やコペルニクスの時計をつくり、トマス・モアの子どもの家庭教師をしたりしたが、地位はあまり高くなく、給料も安かったらしい。作った時計もほとんど残っていない。ホルバインをイギリスに誘ったのは彼だとおもわれるが、ホルバインの描いた彼の肖像画が一番有名な彼の残したものである。

・ベルナルド・フォン・オルレイ
 ブリュッセル生まれのタペストリー職人オルレイは、画家としてのキャリアからはじめて、のちに織物職人に鞍替えした、ヘンリー8世、カール5世、フランソワ1世らが競って豪華なタペストリーを注文し、しかもその値段は絵画よりよほど高かった。かれはイタリアにいったことはなかったが、その要素をとりいれ、ラファエロのタペストリーなどを参考に王たちを相手に豪華きわまるタペストリーをつくる大工房をネーデルランドにもっていた。しかしオルレイの死後、フェリペ2世が、新教徒を迫害し、この街に侵攻、技術者たちはちりぢりになり、多くはドイツに渡ったが、かつての勢いはとりもどせなかった。オルレイはデューラーと親交があり、彼の描いた肖像画が残っている。

・クリストフォロ・ダ・メッシスブーゴ
 ルネサンスの宮廷文化は15世紀にイタリアとネーデルランドで始まり、16世紀には全ヨーロッパに広がった。野心家の君主たちは富を誇示しようと美術品を収集したり豪華な衣装をあつめたりしたが、ラテン語も読めないのに図書館をつくったりしたが、宴会は華やかな消費の機会であり、豪華な食卓と間に挟む余興で、いかに宴会にきた人たちを驚愕させるかとう戦いが行われた。メッシスブーコは30年近くフェラーラのエステ家に仕えた料理長でスカルゴと呼ばれるシェフ兼宴会総監督である。その出自は不明だが、宴会で出世して晩年は貴族の夫人と結婚してカール5世からパラティン(宮中伯)にされた。死後に出版した「宴会、料理の準備と食器・小道具全般について」はベストセラーになった。彼の宴会は9時にはじまり翌朝3時か4時までつづくまもので、8から9品のコースからなった。各コースには1ダース以上のさまざまな料理がでる。少量の冷たい前菜ではじめ、果物やお菓子、数千個の牡蠣でしめくくる。最後にはトリオンフォ(凱旋)と呼ばれる凝った砂糖制の彫刻もあった。意外な組み合わせと豊富さで圧倒するものだった。

・ヴィットリア・コロンナ
 彼女は、偉大な傭兵隊長を父にもち、母の家系からはウルビーノ公フェデリゴ・ダ・モンテフェルトロとミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの孫であり曽孫であった。兄は教皇と税金について争って戦いに生涯のほとんどを費やした。ヴィットリアは一族の芸術的才能のもっともよい部分をうけとっていたが、ナポリ・アラゴン家の王フェランテからの抑圧で、4歳で、フェランテのアラゴン人総司令官の息子6歳のフェルナンド・フランシスコ・ダヴァロスと婚約させられた。1509年にフタ来はイスキア島で結婚したが夫は戦いのために留守がちで、やがて戦争でなくなった。ヴィットリアは一時自殺も考えたが、廷臣や称賛者、求婚者のサークルに囲まれ、従妹たちの助けで立ち直った。やがて恋愛詩をつくるようになり出版された。「最後の審判」をかいたころのミケランジェロとも親交があり、ミケランジェロが彼女の素描を残している。やがて抒情詩から宗教へのと関心をうつし、ローマの修道院の中に移り住んだ。修道女にはならず、ベルンルディーノ・オキーノやレジナルド・ポール枢機卿、ピエトロ・ボンベといった改革主義の聖職者を含む主要な神学者たちと交流し、宗派の和解を望んだ。しかし16世紀に帝国や信仰の衝突が激化したとい、彼女は改革者と交流していたとして異端審問所の調査対象であるという噂がたった。かつては戦いにあけくれる男たちを呪い、今は自分を容疑者にした者たちを呪いながら彼女はなくなった。

・マルグリット・ド・ナヴァル
 1492年、フランス王位の第2継承者アングレーム伯の長女として生まれたが、フランスの王位は男子しか継承できなかったので父は落胆したという。2年後に弟がうまれ、その2年後に父が亡くなった。マルグリットの母ルイーズは異例なほどよい教育を受けていたので、彼女はマルグリットとフランソワ、そしてグレーム伯の庶出の娘ふたりに教育を授け、特にマルグリットはフランソワの第2の母として教育した。彼女はフランソワより優秀であった。その頭脳よりも価値があったのは花嫁候補としてで、10代でヘンリー7世に求婚されたが、年より過ぎるしイングランドは霧が深すぎると拒否。1509年にアランソン公シャルルrと結婚してフランス南西部の領土紛争をおちつかせた。二人には共通の関心はほとんどなかった。結婚しても王妃以上に王の大使として活躍し、フランソワがパヴィアの戦いでとらわれたときにはマドリードでカール5世と交渉した。夫もパヴィアで戦死したので、1527年35歳でナヴァル王、アンリ・ダルブレと再婚。知性でひきあった二人の間には娘、そして息子が生まれたが、息子を妊娠中に行事を欠席したマルグリットは悔しさをのべている。息子は5か月で亡くなったが、娘はのちにアンリ4世の母となった。詩と劇をかいた熟練作家として実績があったが、息子を亡くしてからはよりシリアスな作品を作るようになり、エラスムスの福音運動を信奉したが、カトリック教会とは決別しなかった。しかしフランス語訳新約聖書を刊行した作家を保護し、弟にすすめてコレージュ・ド・フランスという進歩的な学者のための教育機関をつくったりした。宗教詩もつくったが、最も有名な作品は「エプタメロン(7日物語)」で、これはボッカチオが1353年にかいた「デカメロン(10日物語)」を踏襲したものだったが、予定した100話までいかず、途中でなくなった。彼女に作品に名前をつけたのは機智にとんだ印刷業者だった。

・ピエトロ・アレティーノ
 靴職人の男とアルバイトでモデルをする娼婦の間にピエトロは生まれた。早くに本名はすてて、アレッツォ出身のピエトロという意味の、ピエトロ・アレティーノと名乗った。学校にはほとんどいかず、十代のときい近郊のペルージャでいsばらく美術教育をうけたが、その後詩人になると決めた。シエナで彼がレオ10世の風刺詩を書いたのが、シエナ人銀行家アゴスティーノ・キージの眼にとまり、彼はローマについていった。レオ10世時代のローマは風刺詩人には絶好の狩場で、その作品にも寛容だったが、レオ10世が亡くなり、ハドリアヌス6世になりと取り締まりが強化されたので、アレティーノはローマを後にする、ジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世となったとき戻ってきたが、取り締まりが強化されるばかりで、司教と殴り合いを演じた後、永遠にローマを去った。いくつかの諸侯を訪ねたのちにヴェネツィアにおちつき、ペンで食べていくためにあらゆるものを書いた。そして新ジャンルとしてヨーロッパじゅうの貴顕善人にあてた半分フィクションの「書簡」を大量生産した。新刊の宣伝に熱心な印刷御者の群れなす安全なヴェネツィアで、好き放題に人物をほめたりけなしたりした。彼にかかれたくない王侯貴族から恩給がもらえるまでになり、それは彼の文筆業の収入と同じくらいになった。家を友達に開放し、大食と姦淫をやめることなく亡くなった。

・ウィリアム・ティンダル
 英国北西部に生まれたティンダルはオックスフォード大学で学士と修士の位を取得1515年に聖職者になった。おそらくケンブリッジ大学で古代ギリシア語を学んだ。古代ギリシア語からラテン語新版新約聖書をつくったエラスムス、ルターのドイツ語訳聖書のように、最古の写本の聖書が最も神の国に近いと信じたティンダルは、英訳版をつくろうとするが、パトロンがなかなかみつからなかった。1525年でケルンで印刷にこぎつけたところを当局に店に踏み込まれ資料を拾って弟子と逃亡したりした。1526年にようやく出版したが、カトリックの教義に不都合な内容があるとして密輸でなければ英国には持ち込めなかった。ティンダルは英語、ラテン語、ギリシア語だけでなく、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語、スペイン語、イタリア語にも通じており、広い読者層に訴える日常的なアングロ・サクソン語を用いて記憶に残りやすい散文を作り出した。最初トマス・モアなどに目の敵にされたかれの英訳聖書は、やがて英国国教会の聖書のほとんどで採用され、今日の聖書でも使われている。1534年ティンダルは新約聖書の改訂版をアントウェルペンから出版。カトリック支配の神聖ローマ領だが、キリスト教人文主義の中心地で比較的安全な場所であったが、反ルター派の男に巧妙に仲間と引き離されて当局に逮捕され、異端として処刑された。

・フランソワ・ラブレー
 1510年ごろ、ラブレーはフランス西海岸近くのフォントネイ・ル・コンテにあるフランシスコ修道会に入った。近年復活した古代ギリシア語がカリキュラムにはいっていた。しかしカトリック教会が唯一の聖書とするラテン語ウルガタ版聖書と、古代の聖書の違いが古代ギリシア語を学んだものにはわかってしまう危険が察知され、ギリシア語は異端教育とされた。ラブレーはヴァンデー地方の制限の少ないベネディクト会修道院に移り、ギリシア語の勉強を続け、3人の私生児の父親となり、ギリシア語を使って当時でも最先端だったガレノスやヒッポクラテスの著作を学んで医者になった。修道士が医学を実践することは禁止されていたので、修道院をでたが、最初は背教者とみなされた、数年間金をつかって彼は教会との良好な関係をつくり、パリ市況の主治医となり、リヨンの高名な病院に起用された、彼は「パンタグリュエル」「ガルガンチュア」といった猥雑な風刺作品を書いた。古代ギリシア語の新約聖書と、ヘブライ語の旧約聖書を信奉する彼のカトリック教会への批判がもりこまれている。改革派であったのでルター派ともあらそい、彼らの風刺もしている。1540年代にソルボンヌが彼の著作を異端としたので、ソルボンヌの管轄外の帝国都市ですごしんがら、出版をつづけた。彼の著作は大人気になり16世紀のうちに100回も版を重ね、彼の散文をまねた作家がたくさんでた。

・ハンス・ホルバイン(子)
 ドイツ・ルネサンスの偉大な第一世代のあと、真の巨匠はハンス・ホルバイン(子)だけだった。父の工房で鍛えられたあと、1515年にバーゼルにいき、美術品をうみだして成功をおさめた。1517年ごろ北イタリアに旅して地元の未亡人と結婚。画家組合に加入して書物のための木版画(ルターのドイツ語訳聖書を含む)をつくった。地元の書店に通っていた人文主義者たちが絵の注文をだしてくれるようになり、宗教画などもてがけたが、肖像画が一番もうけになった。彼の作風はモデルの個性を重んじるフランドルの写実主義がしみこんだものだった。彼の初期の顧客にハーゼル滞在中だったデジデリウス・エラスムスがいて、彼を英国のトマス・モアに推薦してくれた。バーゼル市民の関心は絵よりも宗教改革にあったので、ハンスは英国でモアの家族や知的サークルと交流してメンバーたちの肖像画を描いて十分な報酬を得た。バーゼルに戻り家を建てれるくらいだった。賞賛され、仕事はたくさんあったが、宗教論争に興味がないせいかハーゼルを再びあとにして、英国にいくとモアが失脚していたので、あっさりパトロンを乗り換えてエラスムスに非難されたりしている。才能ある美術家であったので新しいネットワークをつくり、1536年にはヘンリー8世の美術家に任命され、壁画から政府の礼服まで幅広く関与した。でも一番の貢献は肖像画で、王家の人々や廷臣たちを等身大やミニチュアーるで150枚以上かいた。ヘンリー8世がお妃候補の品定めをする肖像画を描いたことでも知られ、デンマーク王女クリスティナの肖像はその一つでヘンリー8世が非常に喜んだという(王女は拒否したが)他にも多くの女性の肖像画を描いて、それは王を喜ばせたが、彼女たちは結婚は幸福ではなかった。

・ニッコロ・タルタリア
 本名ニッコロ・フォンターナは1506年郵便配達人だった父親を失い、6年後にフランス軍が故郷ブレシアを占領し、略奪したとき顔と顎をひどく気づつけられ、以来吃音になった。タルタリアはどもりという意味である。経済的困窮からアルファベットはKまでしか教えてもらえず、数学は独学だった。自尊心と数学の才能と、激しい野心を胸に、彼は長い間ヴェローナの「アバクス学校」で商人の子弟に教えた。地元の軍人の野砲を最大距離に飛ばす位置と照準についての議論に参加して、数学を解決に使えることに気が付いた。自然哲学の飛躍的進歩である。アリストテレス的基礎知識のせいで完全ではなかったが運動中の物体の諸問題を数学的に考察した初めての人物となった。1530年代末には要塞設計や火薬の調合、沈船の引き上げなど広範囲の軍事的諸問題を数量化して居場所を確保した。純粋数学に情熱をもやし、エウクレイデス(ユークリッド)とアルキメデスの最初の信頼できるイタリア語訳を生み出し、3次元方程式の解法の公式を発見した。イタリア人たちが「イル・クーボ」と呼んでいた問題のほとんどを解き明かしたとして名声があがり、故郷ブレシアで有料の講座を開くことができた。しかしジェロラモ・カルダーノに請われて解法を教えると、彼は公表しないという約束を破って本にした(タルタリアへの謝辞はあった)。タルタリアは敵対者と数学対決を行っていたが、カルダーノの弟子で3次元方程式のより包括的で応用できる解法を師匠といっしょに発見した若者に敗れ、ブレシアに逃げ帰り、名声も職もうしない。晩年はヴェネツィアで商人の子弟に教えながら、著作からのわずかな収入を得て過ごした。

6新しい波 1530~1550
 ルネサンスの最後の世代は統合と再定義の時代だった。100年前に最初の人文主義者たちのパトロンになった北イタリア共和制のエリート商人層は、没落するか、既存のエリート層に吸収されていなくなった。変わって宮廷文化が富よりも育ちの良さを尊び、修辞より信仰、共和制古典主義より、帝政古典主義を好む文化が流行した。新参者は十分な資金があれば没落貴族と結婚して出世できた。騒乱がおちついて略奪がイタリアでおわり、ドイツで宗教闘争が下火になるとエリートたちは軍隊に使っていた富を建設と購入に注ぎ込む。彼らは競って別荘や庭園をつくり、4輪馬車で都市を殿様旅行した。カトリーヌ・ド・メディチはフィレンツェの宮廷モデルをフランスに持ち込み大流行させた。カトリック陣営がプロテスタントの主張にようやくたちむかったが、両者の溝はうまらず、教会は分裂した。しかしカトリックの改革によって、新しい修道会が生み出され、イエズス会は布教によって世界をまたにかけた探検家をうみだし、そのあとにはヨーロッパの市民と軍隊が続いた。

・教皇パウルス4世
 1555年に教皇に選出されたとき、ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファは71歳だった。彼の前任のマルケルス2世より早く逝くと考えられていたが、彼は即位し、猛烈な異端審問を行った。異教徒だけでなく物乞いや印刷業者、ユダヤ人など、彼が好ましくないと思うものを徹底的に迫害し、おいだした結果、経済は破綻し、十分な考えなしにスペイン領ナポリに宣戦して第2のローマ略奪を引き起こすところだった。そして失敗のすべてを他人のせいにして責任をひきうけることを拒否した。彼が死んだときローマ市民は喜んで彼の彫像の頭でサッカーをした、カラファ一族の主要なものがとらえられて殺され、建造物からは紋章がひきちぎられた。若き日のジョヴァンニは私財をなげうってテアティーナ修道会をつくり、慈善行為に熱心だったが、異教徒にも厳しく、当時はまだ教会の高位のものでもルター派に共感するものをにがにがしく思っていたという。

・皇帝カール5世
 ハプスブルグ家のカールは6歳で13の大国に君臨し、16歳でヨーロッパで最大にして最速でかくだいしつつある王国の君主だった。19歳でフッガー家の金で神聖ローマ帝国皇帝に選出された。古代ローマの2倍の領土をもち、史上最大の領土をもったが彼が征服したものはなく、王家の結婚と政治戦略によるものだった。ネーデルランドで権力を確保し、帝国を移動しながら、カールは領土を守るために戦った。帝国をおそれるフランス王フランソワ1世やオスマン・トルコ、そして国内の宗教分裂。混乱から利益を得ようとするイタリア諸侯や教皇庁には常に外交使節を送らなければならない。移動と戦いに疲れた彼は晩年は多くの称号をすて、ハプスブルグ家の分家に権力を移譲してマドリード郊外の修道院に隠棲して晩年をすごした。

・ベンヴェヌート・チェッリーニ
 楽器職人の息子に生まれたベンヴェヌートは、父の仕事を嫌って金細工師になった。中流出身の他の職人と同じように熟練した腕前と良いコネで仕事でトップになった。このあたりがルネサンスのイタリアを特徴づける文化的社会的流動性である。ローマ、フィレンツェ、フランスで働き、最後はフィレンツェに戻った。チェッリーニは独裁君主たちの装飾的欲求をみたし、1543年にフランス王フランソワ1世のために想像した黄金製のサリエラ(塩入れ)などが有名である。彫刻家としてミケランジェロに匹敵する才能があるとしていたが、大規模な注文が入るようになったのは中年になってからで、フランソワ1世の注文はうまくこなせず、フィレンツェのコジモ1世の注文で作った「ペルセウス」は今も残っている。しかし、彼が有名なのは晩年に5ねんかけて描かれた「ヴィーダ」というかれの自叙伝である。それまでの自伝と違って人生の遍歴という型にはまらず、美術家としてのパトロンとの葛藤や、ローマ略奪のときの様子やコロッセウムでの降霊術の会にさんかしたことなど、冒険者の記録でもあった。チェッリーニ自体がルネサンスの傑作とみとめられたのである。

・聖フランシスコ・ザビエル
 ピレネーの山の中、バスク貴族のザビエル家に生まれたフランススコ・デ・ヤソ・イ・アスピルクエタは、1512年のスペインによるバスク征服後、父を失い相続権を失ってパリに移住。ソルボンヌ大学哲学科で学んだ。在学中にであったバスク出身のカリスマ的指導者イグネティウス・デ・ロヨラに誘われて、5人の学友とともにイエズス会を結成した。ポルトガル王ジョアン3世の求めで教皇パウルス3世が東インド諸島への宣教師の派遣をきめたのに選ばれてヨーロッパを離れ、二度と戻らなかった。3か月の疲労の多い航海のあと、ゴアに到着した。ジョアン3世が望んだのは、現地のポルトガル人でインド人の妻と結婚して現地人となったものたちに福音を与えることだったが、ザビエルはこれを拒否、彼の関心は原住民に布教することだった。ポルトガル人たちはザビエルを非難したので、そうそうに立ち去り、インド南部で数万人に洗礼を与えた。彼は逆に、かれらこそ異端として審問所をよこすように教皇に願い出ている。西洋の価値観に汚されていない従順な原住民をもとめて、西マレーシアの首都マラッカを経て、モルッカ諸島に旅をつづけた。そこで探し求めていた異教徒の共同体をみつけ、大勢が彼の説教を聴きたがり洗礼をうけた。1549年ザビエルは日本にむかい、日本を西洋の影響がみられない社会で、日本民族は理性的とした。ザビエルは医学的科学的知識も駆使して神の教義をとき、エリート層も一般人も彼の話しに耳をかたむけた。しかし彼のもたらすマスケット銃や銀貨が目当てという面もあった。1552年彼はゴアに戻り東アジアの中心中国での布教をする宣教団を組織するが、仲間のポルトガル人にサンシャンという小島に中国人の助手とともに置き去りにされてそこで亡くなった。

・アンドレア・パッラーディオ
 雑役婦と粉屋を両親とするアンドレア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラという石工であった男は、イタリア貴族で詩人兼人文主義者であるジャン・ジョルジョ・トリッシーノがヴィチェンツァの郊外の古い別荘をウィトルウィウスの諸原理で一新するという計画に参加して、その才能をみとめられた。トリッシーノはアンドレアのパトロンとなり、彼に新しい名前を与え、ローマに連れて行って建築物をみせたり、友人たちに紹介したりした。彼の作った別荘は評判になり、10年間に1ダースもどの古典風の別荘をうみだした、今日では世界遺産になっている。トリッシーノ亡きあとはバルバロ卿にパトロンをのりかえた。公共物の建築もおこない、ヴェネツィアの3つの聖堂は彼の作である。1570年にはヴェネツィアの建築計画の責任者になった。長年準備してきた「建築四書」もこの年に出版された。ウィトルウィウスの諸原理を明瞭にのべ、採用するさいの実際的な手段、多様な建築形式を混合する際の美的規則など、建物の諸要素を全体的に調整する手引きも提示した。挿絵はパッラーディオ自身のものである。シンプルな構成こそ形式的要素を注意深く並置してシンメトリカルに見せて壮麗さを達成すると訴えている。彼は金持ちにも貴族にもならずになくなったが、彼の著作はブリテンとオランダで熱心に受容され、第一級のガイドとなった。

・ジャン・カルヴァン
 カルヴァンはスイス人ではなく、フランスのピカルディーに生まれた。最初は聖職者のための準備教育をうけたが、父親がパリの人文主義学校にいれたので、放り出し、オレルアンで民法を学んだ。20歳のころ宗教的啓示をうけた。法学の学位をとりセネカの著作について人文主義的研究もしていたが、彼の情熱は神の啓示にあった。1539年ごろルターの宗教改革の余波でパリ大学の改革がこころみられ失敗におわり、カルヴィンも潜伏亡命を余儀なくなれた。スイス連邦最北の都市バーゼルで著書を発表、改革信仰への説明と弁護の著作に感銘したフランス人亡命者にこわれてカルヴィン派をつくり、一時ジュネーブ市を神権政治で支配したが、1538年に反対者に追放されシュトラスブルグに移った。1541年にフランスからの亡命者でふくれあがったジュネーブに再び招かれ、死ぬまで新たな議会の非公式の長であった。聖書の注釈をかき、毎日1時間メモも見ないで説教をした。1559年カルヴィン派の神学者志望生のための神学校を創設、卒業生たちがフランス・オランダ・スコットランド・英国の故郷で彼の教義を広めた。規律と決意秘密主義によってしばしばイエズス会と対立した。

・クラシア・メンデス・ナジ
 ルネサンス期のユダヤ人は絵のモデルになることは普通受け入れられないことだったので、彼女の肖像画は残っていない。16世紀の定住する国や国家を持たない女性にとって危険な時代を彼女は羽振りのよい金融業者で政治家として生き抜いた。ルネサンスの貴族でない女性として最も強力な存在であった。子ども時代はよくわかっていないが、スペイン起源のユダヤ人の子孫であると思われる。1528年にリスボンでベアトリス・デ・ルナのスペイン命で、裕福なコンヴェルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)フランシスコ・メンデスと結婚。夫妻とフランシスコの兄弟ディオゴは、香辛料や銀、奴隷交易で富を増大させた。1534年ごろ、夫妻にはアナという娘が生まれた。1536年初頭、フランシスコは亡くなり、未亡人は商売の半分を引き継いだ。ポルトガルに異端審問所がやってきて、キリスト教に改宗したふりをしているユダヤ人を逮捕して財産を没収しはじめたので、身の危険を感じて、財産のほとんどと娘と妹、何人かの甥とともにもちだした。ロンドンからスペイン領アントウェルペンのコンヴェルソたちの共同体へのうつり、ディオゴと妹ブリンダの結婚も整えた、ディオゴが亡くなると資産の管理のほとんどがベアトリスに任された。彼女はヨーロッパで最大かつ裕福な商社を指揮する未亡人として、捕食者たちの標的となり、それはビジネス以上に彼女を悩ませた。アントウェルペンでは保護は得られないと思った彼女は娘と妹とできるだけの財産をもってヴェネツィアに移住した。表向きキリスト教徒の彼女たちはユダヤ人とは一線を画して暮らしていたが、妹のブリンダが彼女をジュダイザンテ(改宗したふりをしたユダヤ教信者)の告発をしようとしていると知ると、フェラーラに逃亡して、ユダヤ名グラシア・メンデス・ナジを名乗った。教皇パウルス4世がユダヤ人とコンヴェルソをイタリアで迫害しようとしていると知ると、彼女は荷物をまとめてコンスタンティノープルにおちついた。そして元の財産全部でなくても儲けの多いビジネスは確保した。残りの財産の大部分を使って同法のイベリア系ユダヤ人やコンヴェルソたちが安全な地におちつけるように支援したり、シナゴーグやイェシーバーへの寄進ラビの学問の支援をおこなった。パレスティナ沿岸のティベリアスに土地を買って最初のシオニスト再定住地も設立。彼女の死後なくなってしまったが、タナハ=ヘブライ人の聖典のスペイン語訳などの寄進で、彼女の価値は亡命ユダヤ人に永遠のものとなった。

・アンドレアス・ヴェサリウス
 祖父と曽祖父が宮廷医師だった一族に生まれたヴァサリウスはブリュッセルで生まれたときから医者になるように訓練された。16歳で権威あるルーヴァン大学に入学哲学と文献学の課程をとりながら動物を解剖して独学した。19歳でパリ大学の著名な医者ヤコビウス・シルヴィウスの下で訓練した。人体は地元の孤児養育院の番人を買収して手にいれた。
実践的な彼の研究は古典の解剖学者ガレノスを信奉する師とはあいいれなくなった。ヴァサリウスはヴェネツィアのパドヴァ大学に入り、3か月で試験に通って22歳で医学博士になった。卒業の翌日に公開解剖をおこない、パドヴァ大学は彼に解剖学と外科の教授の地位を与えた。犯罪者の死体を裁判官に提供してもらいながら、ヴァサリウスは解剖をつづけ、ガレノスのたくさんの間違いに気が付いた。そして「デ・フマニ・コルブリス・ファブリカ」(人体の構造について)を出版。驚くほど精確な銅版画が入っているがティツィアーノ工房の作と思われる。ガレノスを否定する彼の著作は議論の対象となり、同僚たちにまで批判者がでたので、彼はパドヴァ大学をでて、カール5世の宮廷医師になった。(カール5世の神学者たちからは死体解剖の許可をえていた)その後フェリペ2世に仕えたが、スペインで彼をおとしいれようと、生きている人間を解剖したから異端審問所が調査していると噂を流され、1562年表向きは聖地巡礼といってスペインをたった。パドヴァで再び教授になりたかったようだが、パレスティナからの帰路ヴェネツィア領ザンテ島で亡くなった。

・アビラの聖テレサ
 テレサの少女時代は、騎士道物語と素行の悪いいとこたちとの付き合いといった愚行にみちていた。13歳のとき母がなくなり、彼女は宗教書を手にとった。修道院に入りたかったが体が弱く20歳で家でしてアビラのカルメル会修道院に入った。しかし当時の修道女たちは「緩和された規則」にしたがっていたため、裕福な修道女は召使や愛玩犬、宝飾品、香水といった世俗的生活を享受し旅行や社交の自由もあるありさまだった。この環境でテレサは重い病にたおれてしにかけた。そして霊的開化をはたす。1543年彼女は病気から回復し、祈りと瞑想を通して神と自分との関係を探る力をみだした。祈祷中に法悦に満たされ、空中浮揚したという。テレサの神秘的達成は、人々に興奮とともに不快感もあたえ、彼女の祖父が強制によってキリスト教に改宗したユダヤ人であることなどが噂された。このような批判にテレサは自己懲罰作戦で対応し、聴罪司祭にとめられるまで続けた。1559年キリストとの神秘的結合を経験し、残りの生涯を導く目的を得る。宣教の方法をカルメル会の改革にむけ、「裸足のカルメル会」をアビラに、そのごカスティーリュに設立。清貧・祈祷・告悔を責務とする、トレント公会議後のカトリック・ヨーロッパを席巻した厳格な改革の精神が反映されたものだった。彼女に反対する者たちは不平をいい、異端審問所が調査にはいったが、数年ののちゆるされて改革に戻ることができた。晩年は自らの霊的遍歴の詳細な報告を執筆し、その体験はカトリックの宗教改革の理想をよくとらえていたので、死後40年で列聖された。

・カトリーヌ・ド・メディシス
 彼女は14歳でフランスの王子アンリに嫁いだ。特に美人ではなかったが、彼女の伯父、教皇クレメンス7世がたくさんの持参金をもたせたためである。アンリは結婚当初兄に継ぐ第2王位継承者でしかなかったが、フランス人たちはそれでも彼女を商人の娘とばかにした。しかも結婚の1年後にクレメンス7世が亡くなり、新しい教皇パウルス3世が持参金の約束のほとんどを反故にしたので、フランソワは「あの娘は丸裸で嫁にやってきた!」と悪態をついた。35歳まで子どもも生まれなかったが、(アンリは愛人をもった)その後9人の子どもに恵まれた。しかし彼女の息子たちはみな弱く、3人が玉座についたが早世するか暗殺された。フランス国内はカトリック派のギーズ家と新教徒側のブルボン家があらそっていた。国内でもカトリックの頑固な信者とカルヴィン派のユグノー教徒が分裂していた。最初はロレンツォ・デ・メディチのような調停をこころみて失敗すると、彼女はギーズ家と結んで片方を暗殺した。サン・バルテルミーの虐殺である。フランス人は彼女を二枚舌、残忍、悪行、外国女性とののしったが、アンリを馬上槍試合で失い、幼い子供を抱えた未亡人である彼女が分裂しかかった王国を救おうと身をささげたのは間違いない。

・ルイーズ・ラベ
 1542年フランス王大使アンリに捧げられた馬上槍試合で優勝したのが、女流詩人のルイーズ・ラベであるのは本当らしい。その後フランス軍に加わって戦ったというのはおそらくフィクションである。彼女は16世紀フランスの印刷業の国際的中心地リヨンの裕福な綱職人の娘に生まれた。父親は読み書きできなかったが、彼女には兄たちと同じ教育を与えた。ラテン語、スペイン語、イタリア語、馬術やフェンシングなどである。しかし結婚に関しては保守的で、1543年ごろルイーズは30歳も上の読み書きできない綱職人と結婚させられた。夫とは共通点がなかったので、彼女は家に人文主義じゃをよんでもてなした。当時の中流の夫人としては大変めずらしいことである。自らも散文や詩をかき、特に恋愛詩は官能的で夫のほかに恋人がいたことをうかがわせる。彼女の著作で一番有名なのはクレメンス・ド・ブールジュというリヨンの若き貴族の女性に捧げた序文で、フェミニスト宣言といわれているが、内容はリヨンのリベラルな雰囲気を大いに楽しみ、学問を受け入れなさい、そうすれが男性たちも女性を対等にみるでしょうというものだった。彼女の著作が発表され、ジュネーブに伝わるとジャン・カルヴァンが彼女を共同売春婦と非難した。1556年ごろ、理由は不明だが田舎に隠遁し、1560年ごろ夫がなくなり、1566年には彼女もなくなった、その枕辺には恋人がつきそったという。

・エレオノーラ・ディ・トレド
 1537年、カール5世によってコジモ・デ・メディチがフィレンツェ公に選ばれたとき、彼は17歳で、資金も友人も少なかった。しかし迅速に軍を召集し、フィレンツェの共和主義者を打ち破ると要職を息のかかったもので押さえた。彼を魅力的だが操りやすい若者とみていた人々は完全に裏切られた。19歳ですべてを掌握した時、彼は跡取りを得るためにカール5世に結婚相手を求めた。選ばれたのはナポリの副王の娘で17歳のエレオノーラ・アルバレス・デ・トレド・イ・オソリオだった。彼女はスペイン人ながら金髪碧眼でメディチ家に嫁いできたなかで最も魅力的な女性のひとりだった。見合いで出会ったにもかかわらず二人は恋におち、15年で11人の子どもに恵まれた。コジモがでかけるときもエレオノーラは出来る限り同伴し、いけないときは毎日お互いに手紙を書き送った。彼女は支配者と臣下の距離が必要と考え、フィレンツェを見下ろす丘にピッティ宮殿をつくり、政府の官庁まで専用の通路でコジモは移動するようになった。この宮殿に美化工事をして、城壁に囲まれた5ヘクタールのボボリ庭園に一連のグロッタ(人工洞窟)、神殿、小道などをつくり、庭園の古典的円形劇場でギリシャやラテンの喜劇を上演させ、中庭で青年たちに形式的な馬上槍試合をさせたり、水をいれて模擬海戦をできるようにした。これらはのちの宮廷文化のお手本となった。彼女自身は40歳で早世したのでそれらを極めることはなかったが、絶対主義時代の貴族のふるまいのアウトラインをつくったのである。


7近代の枠組み 1550~1600
 1600年ジョルダーノ・ブルーノが火刑台におくられたとき、本当の意味のルネサンスはおわった。彼は最後の人文学者だった。同じ人文主義の先人たちが100年前にはたやすく大学の教職や宮廷での地位を確保できたのに比べて、彼ははるかに不利な時代を生きた。最終的には異端審問所が彼をとらえたが、保守的縮こまり現象にみまわれたいた国家も同じようにしたろう。カール5世が引退し、弟フェルナンドに神聖ローマ帝国を、息子フェリペ2世にスペイン、イタリア、ネーデルランド、南北アメリカを与えた。イタリアでは1559年の条約でスペイン支配が確立しフランスが追い出された。製造業と金融業を基盤としていたイタリアの経済は土地所有による経営におきかわり再封建化された。田舎の地主が私兵をもち、スペインの体面を重んじる文化をうけいれたので、治安はあっかし、活気ある商人や大学の活動は難しくなり、半島全体が停滞した。ヴェネツィアだけはスペインの支配下にはいらなかったが、トルコとの争いで半島の情勢に関与する余裕はなかった。フェリペ2世の治世でスペインの経済は4度破たんしている。ドイツでは宗教争いが、支配する君主の宗教がその土地の宗教になるという規則でいったん宗教闘争がおさまったかにみえたが、潜在的な争いがあり、これがくずれたとき30年戦争がおきる。フランスではユグノー派とカルヴァン派の争いが勃発。ヴァロワ朝が滅び、ナヴァル王が王位を要求して勝ち、ブルボン家がおきる。カルヴァン派に刺激されたネーデルランド北部7州が独立運動をしたが、スペインの圧倒的軍事力には対抗しようがなかった。しかしオランダがスペインの邪魔をして、スペインも軍費にこまり結局ネーデルランドは半分オランダ共和国として独立。ベルギーにあたる部分はスペイン領ネーデルランドとなる。英国ではプロテスタントのエドワード6世とカトリックのメアリー・チューダーが争い、エリザベス女王の長い治世の間も不満と猜疑は続いた。エリザベスはスペインの無敵艦隊とイエズス会から王国を首尾よく防衛したが、ポスト・ルネサンスの多くの国と同様「清教徒」の不満増大が最終的に国家の行く末をきめることになる。

・ラウラ・バッティフェッラ・アンマナーティ
 16世紀初頭、教会が疑わしい血統の野心家たちに門戸をひらいていたとき、彼女の父親ジョヴァンニ・アントニオはローマにやってきて、庶出であったにもかかわらず、第一級の人文主義教育をうけてジュリオ・デ・メディチ(クレメンス7世)の随員として居場所を確保した。ラウラは庶出の娘だったがジョヴァンニは彼女が気に入って自ら古典を教え、愛情と財産をそそぎこんだ。彼女は3代にわたって庶出の生まれであったが、肩書のある貴族たちのちょうど下の階級、イタリアのエリートたちの格好の結婚相手だった。最初は音楽家のヴィットリオ・セレーニと結婚したが、早くに夫がなくなり、それを機会に詩作をはじめた。その後少女のころから親交があった建築家で彫刻家のバルトロメオ・アンマナーティと結婚。ローマで、その階級としては裕福でよい縁故のある人がうけられる良い生活をした。ラウラの父はバルトロメオを教皇ユリウス3世のパトロネージに結びつけ、夫はヴァチカンから注文を獲得し、ラウラはソネットを書いて賞賛された。しかしユリウス3世が亡くなり、夫婦はフィレンツェに引越しコジモ・デ・メディチ公の宮廷を頼った。フィレンツェの教養ある知識人たちに暖かく受け入れられ、公妃エレオノーラに奨励されてラウラはソネットをうみだし1556年最初の詩集「リーメ」を出版し、詩壇における地位を確かなものにした。しかし、その直後エレオノーラ公妃や父親の相次ぐ死に心をいため、生涯ののこりを夫と自分の霊的探究とイエズス会に捧げた。彼女は生涯子どもに恵まれなかった。

・ピーテル・ブリューゲル(父)
 ブリューゲルの記録は1555年に彼がアントウェルペンの画家組合に登録するまで何一つない。農民画家と呼ばれているが、農民出身ではなく、よい教育をうけ、頻繁に旅行したのではないかと思われる。美術家としての訓練はピーテル・コーク・ファン・アールストといういくらか評判がある画家からうけたと思われる。徒弟修業のあとローマと南イタリアを旅しシチリアまで行った。アルプスの劇的な風景が彼の作品に使われている。15553年のいつかアントウェルペンに戻り、ヒエロニムス・コックがオーナーの印刷・出版業者で「四方の風」の銅版画デザインをおこなった。ヒエロニムス・ボッスという幻覚をおこさせるような奇妙な絵を描いた人物をまねており、コックはボッスの名前で販売した。こうしたボッス風の作品のあと、自然のなかに小さく主題となる人物を描く作品をつくった。これは人類の叙事詩と愚行への無造作な扱いとしてオランダ人の民衆にうけた。そのご名もない農夫たちの季節にあわせた労働に愛情をよせていったので、ブリュッセルの人々はかれを「ボエア・ブリューゲル」(農民ブリューゲル)と呼んだ。彼が変装して村の祭りにきているという噂が流れた。1566年以降、ブリューゲルは田園の無垢と自然世界をロマンティックに描写する傾向をこえて、道徳的判断なしに、民族文化をあるがままに描いた作品にたどり着いた。しかし最晩年だったので、その完全な開花はまにあわなかった。

・ディック・タールトン
 伝説によれば、彼は野原で父親の豚の番をしているときに見いだされた。彼の「うまくて、まずい機智」に目をつけた高名な貴族の召使が彼をロンドンにつれていったというのだ。ともかく1583年には、彼は女王の一座でタップダンスをしていた。芝居では道化師を演じて、セリフを即興でかえて大笑いをとった。顔は喜劇向きで、カーテンの間から顔をだすだけで笑いをとることができた。エリザベス女王は彼がお気に入りで、どんな医師より女王の憂鬱を晴らすことができ、謁見に女王の希望で同席し、女王に頼みごとをしたい有力者たちは、彼をたよった。しかし、ある晩さん会でウォルター・ローリーとロバート・ダッダリーが女王陛下に不当な影響を与えたと示唆して女王の不況を買って追い出された。彼が1558年に亡くなると、女王の一座は勢いを失った。彼が亡くなったとき24歳だったシェイクスピアが彼にあっていたかはわからないが、彼の道化師にはタールトンの影響がみられ、商人たちは彼の人気にあやかろうと利用し、多くの居酒屋に彼の名前がついた。

・ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ
 伝説によれば、彼はローマの市場にパレストリーナの農場から野菜を運んでいたらしい。彼が作ったフレーズを口ずさんでいるのをローマの聖歌隊指揮者が聞いて、彼を聖歌隊に加えたという。1537年彼の名前はサンタ・マリア・マジョーレ聖堂の聖歌隊の名簿にのっている。7年後には彼自身が故郷パレストリーナ大聖堂のオルガン奏者兼聖歌隊指揮者になった。そして幸運にもパレストリーナ司教のジョヴァンニ・マリア・ダル・モンテが教皇ユリウス3世となり、サン・ピエトロのふたつの典礼聖歌隊のひとつカッペラ・ジュリアの声楽教師にしてくれた。初期ルネサンス依頼ヴァチカンの聖歌隊はフランス人とフランドル人に占められており、ジョヴァンニ・ピエルルイジはよそ者な上に俗人の既婚者で、原則聖職者であるという聖歌隊の規則にも違反していた。他の歌手たちは彼を誹謗した。ユリウス3世と次のマルケルス2世の間は俗人が聖歌隊に参加することも認められ、無事にすごしたが、保守的なパウルス4世の時代にかれは職を失ってしまう。失意のため病気になったりしたが、その後ローマのサン・ジョヴァンニ・ラテラノ聖堂の聖歌隊指揮者に任命され元気を取り戻す。彼の作る作品は、それまでの流行歌をとりいれたような小細工の多い曲でなく、歌詞がきちんと聞こえ、オリジナルのメロディーと対立法のテクニックを用いて心地よい、ついていきやすいものだった。特に教皇マルケルスにささげた六声のためのミサ曲は評判になった。彼はカトリック音楽の救世主とよばれることになる。ほとんど旅をしなかったが、その理由はマントヴァ公やフェラーラ公が彼を呼ぶたびに教皇庁での彼の地位が上がったためと思われる。1571年教皇ピウス5世が彼をカッペラ・ジュリアの学長に連れ戻した。聖職にある歌手たちは反発したが彼は残りの生涯をこの地位にとどまり、12人の教皇に仕え、700曲以上を作曲した。1580年に妻を亡くした時聖職に入ることを考えたが、結局裕福な未亡人と結婚して金の心配をせずに作曲できるようになった。

・ジュゼッペ・アルチンボルド
 22歳のとき最初にうけた注文はミラノ大聖堂のステンドグラスの窓デザインだった。10年間天井画やコモ大聖堂のタペストリーの下絵を描いたりしていた。彼のなにかがハプスブルク家のマクシミリアン2世の目に留まり、1562年マクシミリアンが神聖ローマ皇帝に選ばれたときに宮廷画家になった。そのご25年間二人の皇帝につかえた。ミラノにいたときから奇妙なものに興味をしめし、おそらく1490年代にレオナルド・ダ・ヴィンチが素描したようなグロテスクなカリカチュアなども含まれていたに違いない。ウィーン到着後に追及しはじめたジャンルは、本で構成された「司書」だったり、家禽と魚の尾からなる顔の「法学者」といった絵であった。料理人や庭師は絵をひっくり返すと人物が消えて野菜や肉だけにしかみえなくしてあった。「四季」はいくつかのヴァージョンがあり、花や果実や瓢箪や枝葉で若者から老人までを描いたものだった。アルチンボルドの意図は不明だが、彼の作品を具体化するのに必要な鮮やかで対照的な色彩、生物の熟練した描写は同時代の画家たちと一線をかくしている。その肖像画はボッスのような悪夢的幻想を有している。彼が自然の要素から構成した人物像は解体のプロセスとして示されている。ぞっとするようなものだったが、注文は引く手あまたで、「四季」のコピーなどを多く生産して売りさばいた。オリジナルは帝室「クンストカンマー」に保存された。これはマクシミリアンが創設し、息子ルドルフ2世が拡充した美術品と珍奇なもののキャビネットである。晩年には画家はミラに戻ったが、亡くなる前に最後の構成肖像画をルドルフ2世におくり、皇帝はいたくこの作品を気に入ったという。

・ソフォニスバ・アングィッソーラ
 北イタリアのクレモナ市の下級貴族アングィッソーラ家は、子どもが生まれると古代のカルタゴの英雄にちなんだ名前をつけた。ソフォニスバは長女だった。幼いころから絵を描くのが好きで、14歳のとき父を説得してベルナルディーノ・カンピの工房にいれてもらった。貴族の女性が徒弟奉公などできないので、謝礼を払う客分として3年間毎日カンピから教えをうけ、特に16世紀半ばにイタリアの貴族社会で流行していた肖像画の書き方を教わった。ソフォニスバは知的で洗練された作品を作ることができたが、貴族の女性が絵をかくことはない時代だったので、ソフォニスバは家族や自画像を描いて過ごした。彼女の家族を描いた作品は「バンボッチャンティ」の風俗画や静物画を一世代以上目にしめしている。父親のアミルカーレは彼女の素描を、パトロンや教師の候補者ならだれでも名士のように与えた。笑う女性を描いたスケッチを82歳のミケランジェロに送り、老巨匠が泣いている少年のスケッチを送ってほしいと返事をすると、蟹に手を挟まれて泣く弟とそれをみている姉の素描を送り、ミケランジェロは感銘をうけ、地震の素描を模写や手直しの訓練用に彼女に送りはじめた。1554年、ミラノで彼女はミケランジェロに会い、彼女の様式に影響をうけた。またこのことがミラノにいたクレモナの宗主たちの関心を引き、即位したばかりのフェリペ2世に彼女を推薦してくれた。王は14歳の幼い花嫁エリザベート・ド・ヴァロワの女官兼宮廷画家としてスフォニスバを採用した。エリザエートはカトリーヌ・ド・メディシスの娘で半分イタリア人であり、二人は親友になった。エリザエートが22歳で亡くなってもソフォニスバはマドリードにとどまり、絵を描き、王女たちの養育を手伝い、スペインの最高貴族と結婚した。夫がナンパで亡くなると、1578年クレモナに戻るために出発した。40代後半の未亡人で退廷した廷臣である彼女は帰りの船であった自分よりずっと若い船長と恋におちた。彼はジェノヴァ貴族でオラツィオ・ロメッリーノといい、1580年に二人は結婚してジェノヴァにおちついた、オラツィオの縁故と王からの年金でその後40年間彼女は尊敬される肖像画家としての人生を享受した。1607年にはスペインの宮廷画家ピーテル・パル・ルーベンスが彼女を訪ねて敬意をささげた。8年後夫婦はロメッリーノが投資していたパレルモに引越した。1624年
若きアントニー・ヴァン・ダイクが彼女の作品にひかれてやってきた。彼はソフォニスバは90歳だが頭脳明晰で記憶力に優れ、非常に礼儀正しい、視力は弱っていると書き残している。彼女はいつも通り肖像表現の助言をし、ミケランジェロから学んだことを伝えた。ロレンツォ・デ・メディチの宮廷で学んだ芸術家からチャールズ1世に仕えて英国の内乱勃発を目撃した芸術家への架け橋となった。

・ミシェル・ド・モンテーニュ
 モンテーニュはフランス南西部の裕福で知的な家庭に生まれ、6歳までラテン語をしゃべらされて育った。その後は哲学と法学の訓練をうけて何年も法官として働いた。ボルドーの市長も2期つとめた。37歳のとき公職を捨て、町の郊外の地所に隠遁した。書斎を石の塔ににうつし、読書と思索に後半生を費やした。エッセーとというのは彼が怠惰のあまりうかんできたことを、なんでも書き留めたもので、のちに文学の一ジャンルになった。ブラジルの人食い人種について、殺してから火あぶりにするが、ヨーロッパ人は生きたまま火あぶりにするとして野蛮人ではないとした。「誰でも自分が慣れていないことは野蛮と呼ぶ」と述べた。旅が好きで、スイス・ドイツ・オーストリア・イタリアに旅行し、滞在中はフランス人を避けて現地の人たちに同じように扱ってくれと頼み、いろんなことに挑戦し、日記に記録している。「未知のものが楽しい驚きをもたらしてくれる」といっている。1592年に亡くなったとき彼の評判はフランスを越えて広がり、シェイクスピアの仲間の一人が「エセー」の英訳をはじめ、のちの詩人たちもモンテーニュの考えの影響をうけている。エマーソンはモンテーニュを最も率直で最も誠実な作家とよんだ。

・アンカンジェロ・トゥッカーロ
 1535年ごろ中部イタリアのアクィラで生まれたトゥッカーロは、ウィーンで「ホフスプリングマイスター(曲芸の師匠)」としてローマ皇帝マクシミリアン2世に仕えた1570年皇帝の娘がフランス国王シャルル9世に嫁いだとき婚礼でパフォーマンスをみせたところ、感銘をうけたシャルルが「王のとんぼ返り師」として雇われた。20歳のシャルルや弟のアンリにとんぼ返りを教え、祝典と舞踊の名人として、劇や馬上槍試合、祝祭、舞踏会を企画実行し、カトリーヌ・ド・メディシスが「運動させておかないとほかのもっと危険なことをする」といったフランス人たちを眩惑した。「空中に跳躍飛躍する方法についての三つの対話」という古典時代以来の運動の本をかき、人間界のできごとは天の運行を模倣しているというルネサンスの考えをとりいれて、正確に行われる運動は天の運動を模倣するといった。60代でも演技を続け、死ぬ間際には詩集もだしている。彼の死後長い間、彼の運動本は宙返り曲芸師たちにとって基本文献であり続けた。

・エドマンド・キャンピオン
 ロンドンの書籍商の息子キャンピオンは、奨学生だったが、その頭脳明晰により13歳でチューダー朝のメアリー1世が初めてロンドンに入城した際に歓迎の挨拶を述べる名誉を担った。オックスフォードを卒業し学位をとったセント・ジェームズ・カレッジの講師になったが学生たちにひっぱりだこだった。1566年メアリーの異母妹で継承者であるエリザベス1世がオックスフォードを訪問した時、彼は演説と討論を行い、感銘をうけた女王は彼を「英国のダイヤモンドのひとつ」といった。しかしキャンピオンはカトリック支持者だったため困惑した。プロテスタントによるカトリックの迫害が決定的になると、彼はブリテン島をでてスペイン領ネーデルランドのドゥエーにいった。英国国教会の支配を脱出したオックスフォードの学者たちによるイングリッシュ・カレッジで神学の学位をとってイエズス会に入った。最初はオーストリア帝国のチェコ地方で6年間フス派を再改宗させた。その後英国に送られ、逃亡と司式をしながらカトリック信仰の優位を説いた本まで出版した。逮捕されたキャンピオンはロンドン塔に連行され、立つことも座ることもできない狭い独房リトル・イーズにおしこめられ、信仰の真実を試すために繰り返しラックというむりやり手足を伸ばす拷問器具にかけられた。エリザベス暗殺の汚名をきせられて1581年にタイバーン・クロスで首を吊られ、内臓をえぐられ、四つ裂きにされた。彼の殉教の知らせは多くのイエズス会士を英国に呼び寄せ300人が英国に渡ったが、半数は処刑されたという。1588年英国がスペインの無敵艦隊を破るとカトリックは勢いを失う。英国国教会への強力な挑戦は国産の急進的カルヴァン派の清教徒からおこることになる。

・カテナ
 1580年11月25日フィレンツェへ向かう街道でローマ警察に捕まえられた男は、悪名高い盗賊カテナだった。拷問にかけらた彼は、それまでの罪をすべて白状した。18歳で復讐のために殺人をして故郷をでて田舎に潜伏し、同じような境遇の男たちや親せきが集まってカテナ団をつくり、家畜を盗んだり、盗みにはいったり、旅人や商人をさらっては身代金をとった。団の敵は殺し、スパイと思われるものは悲惨な殺し方をした、彼は45人を殺したと自慢した。団は教皇領に点在するローマ警察の権限の及ばない多くの封建所領に隠れたが、領主は、自分たちに害が及ばないかぎり何もしてこないし、時には彼らを私怨のために雇ったりしていた。事態が悪化したので、カテナはお仲間の豪族たちのところにいられなくなり、トスカーナ目指して街道を歩いているところをつかまったのだ。カテナがつかまったとき近くにいたモンテーニュが彼のことをかいており、周囲に評判が広まり、カテナの処刑には3万人が集まった。彼が処刑されてすぐに彼の冒険のバラッドが作曲された。

・ヴェロニカ・フランコ
 16世紀初頭のヴェネツィアの人口は10万人でそのうち1万人以上が娼婦だったという旅行記がある、100年後にヴェネツィアを旅行した英国人は2万人の娼婦がいると書いている。ヴェネツィアは高級娼婦で有名だったが、そのなかでもヴェロニカ・フランコは特に有名である。1546年に中流階級の両親のもとにうまれた彼女は、兄たちと一緒に教育をうけ、16か17で医師と結婚するが1年もたたないうちに夫の家をでた。1564年には赤ん坊を出産し、ある裕福な貴族を父親としてあげている。1565年にはヴェネツィアの高級娼婦の案内書に名をあげられている。彼女の母親もかつては高級娼婦であった。彼女たちは家に押し込められていた貴族の女性と違って男性の領域に潜り込んで哲学・歴史・文学を語り、美貌と才能で男たちを魅了した。ヴェロニカの接吻ひとつで労働者の1週間の給金が飛ぶ値段だった。モンテーニュが書き残しているが、高級娼婦たちは会話に特別料を課した。ヴェロニカはその上に一流の作家と交流し、書簡集と詩集を出版した。また匿名の男に卑猥な詩で攻撃されたときも反論した。ヴェネツィアの高級娼婦たちは他の都市の同業者より迫害されることが少なかった。おそらく共和国の12隻の戦艦の維持費に相当する税金を払っていたためであろう。高級娼婦は貴族の女性とみわけがつかず、男たちには区別がつかなかった。1575年から77年にペストが流行し、ヴェロニカも田舎に逃げたが、留守宅は泥棒たちにあらされた、ヴェネツィアの3分の1が亡くなり、商業が衰えた。彼女の収入も減ったが、最大の試練は1580年に召使の一人が彼女を魔女と告発したことである。みごとな反論で罰をうけることはまぬがれたが、彼女の評判は落ち、1582年には貧しい娼婦が住む貧困地域でくらしていた。1591年に熱病で亡くなったが、二人の子どもに十分な金を残し、商売をやめたいと望む娼婦のための基金を設立する金も残した。

・ティコ・ブラーエ
 デンマークの貴族ティコ・フラーエは、少年のころ日食を目にして天文学のとりこになった。ただし彼は天体の運行が人間の世界を支配しているという考えを信じており、天体を観測することで、人間の運命を知ることができると信じていた。生涯錬金術にも情熱をそそいだ。大人になった彼はデンマークの最大の個人資産家だったので、自分のための観測装置をつくる職人を集め、半径5メートル以上の四分儀を設計製作し、1571年にヘレヴァド修道院で観測を始めた。ちょうどカシオペア座で超新星爆発があり、肉眼で2年間観測ができた。これにより、ブラーエはプトレマイオスーアリストテレスの天体は固定され不動であるという説を覆した。天文学の最先端に躍り出た資産家がドイツにいってしまうのを恐れたデンマーク王は彼にヴェーン島に天文台を建設することを申し出た。ここに「星の城」という天文台を建築し、百人以上の研究生を抱えたティコの天文学・錬金術研究所は、ヨーロッパ規模の評判を得た。正確な観測で、ティコはコペルニクス・モデルで解決されない問題のいくつかを説いたが、ほかの惑星は太陽の周りをまわっているが、太陽は地球の周りをまわっているという説に固執していた。惑星と太陽の正しい関係を見いだすには、星の城で働いていた研究生ヨハネス・ケプラーを待つことになる。ティコはガリレオの「星界の報告」がでる9年前に亡くなり、天文学が占星術から解放されるのをみないですんだ。

・ジョルダーノ・ブルーノ
 1527年にドメニコ会の修道士になったブルーノは記憶・喚起に関する研究で名を成した。ナポリの修道院を離れてローマで教皇に記憶・喚起の術を披露したが、三位一体を否定し、独房から聖人たちの像を放り出し、トイレで禁書をよんでいるのをみつかった。異端審問所が追跡しているときいて、1576年ローマに逃げ、同僚のドメニコ会修道士を殺害した疑いをかけられて、再び逃亡ジェノヴァ、トリノ、ヴェネツィア、パドヴァ、ベルガモへ生き延びるために急いで町を離れたが、たいていは権力者の誰かを「まぬけ」とののしったためだった。数学や哲学で教授になれる訓練をうけていたが、社交的政治的器用さにかけて安定した職につけなかった。修道士なのに俗人の恰好をして、金がないのでドメニコ会の修道院にきては修道士をいらだたせた。1578年ブルーノはフランスで運試しをすることを決意。ジュネーブでカルヴァン派に改宗し、数か月教鞭をとってが、上位の教授を告発して追い出された。リヨンとトゥールーズを経てパリに行き、国王アンリ3世に記憶・喚起システムを説明した。アンリの大使として数年間安定した生活をおくり、その間に記憶術の本も出版した。彼は新プラトン主義者であったが、これは教会では異端だった。英国のオックスフォードで職をもとめて失敗し、宇宙論にむかい、ニコラウス・クザーヌスの多元世界観から多くを借りて、地球だけでなく太陽も動く、実はあらゆる星が動いているとした。彼の風変わりな文体も手伝って、誰も彼の説を相手にしなかった。英国で失敗し、フランスの恩顧も失った彼は、ドイツに向かうが講師の職をもとめて大学都市を訪ねては教会と衝突して移動した。カトリック、カルヴィン派、英国国教会、ルター派から一様に破門された。そしてイタリアに帰るという愚行を犯し、異端審問所にとらえられて火刑台で焼かれた。

・イザベッラ・アンドレイーニ
 ルネサンスの「コンメディア・デッラルテ」はアートともコメディとも関係がない。16世紀半ばのイタリアの役者と観客にとって「コンメディア」はあらゆる種類の劇を表す言葉で、「コンメディア・デッラルテ」は職業劇団といういみだった。そのルーツは大道芸にあり、役者たちはほとんど即興で演じたがターニングポイントはきめられていているというものだった。ヴェネツィアのような都市で急速に支持者を獲得した「コンメディア・デッラルテ」は赤線地区に新しくオープンした劇場を定住地とした。このうちの最も初期のひとつが「コンバーニャ・デイ・コミチ・ジェローチ」であった。ジェロージー一座と呼ばれたこの一座は1577年にはすでに成功を収めてフランス巡業を終えていた。そこころ素性のわからないパドヴァ出身の15歳の娘イザベッラ・カナーリが加わった。彼女は美しく快活でカリスマ性があり、たちまち一座の主演女優がでていってしまい、座頭と結婚して夫とジェロージー一座を運営した。コンメディア・デッラルテではいつもの10人とよばれる登場人物が決まっていたが、イザベッラはどの役でも男役でも女役でもこなすことができた。たいていは仮面をかぶらない恋する女性の一人を演じた。コンメディア・デッラルテの女優はしばしば高級娼婦だったが、イザベッラは10代のころから作品を書いて才能を示し、一線を画する存在になった。1580年代末にはイザベッラの狂気という即興劇もつくって上演している。一座はイタリアの諸宮廷を巡業し、アンリ3世がヴェネツィアにやってきたときの呼び物となり、フェルナンド・ド・メディチの婚礼の主役でアンリ4世の宮廷の常連劇団としてパリにも2度いった。1664年、イザベッラが8人目の産褥でなくなると夫は劇団を解散したが、彼女の子どもの一人が自分の劇団を結成して、母を記念して「コミチ・フェデーリ」と名前をつけた。


ルネサンス人物列伝

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  • 作者: ロバート・C. デイヴィス
  • 出版社/メーカー: 悠書館
  • 発売日: 2012/07/15
  • メディア: 大型本



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