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学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈上〉1492~1901年 [雑学]

民衆からみたアメリカ史の本
歴史家は事実から何をとりあげるかで、違う視点の歴史を書く。
英雄や将軍たちの歴史ばかりが語られるが、民衆の視点からの歴史は少ないといっていた。


第1章 コロンブスがはじめた制服の歴史
コロンブスは偉大な冒険者ではない。金を探しにインドをめざし(出資者に黄金を船一杯つんで帰ると約束していた)
それが得られないとわかると奴隷狩りをしてスペインに送った。
1492年10月12日コロンブスがバハマ諸島に到着したとき、先住民アラワク族は旅人をもてなすという風習で迎えた。
しかし、コロンブスは鉄器ももたない彼らを金の場所を教えろと脅し、拷問した。
そして金はないとわかると、彼らを奴隷にしてヨーロッパに送った。
しかし劣悪な環境で無事に海を渡ったインディアンは500人中300人だった。
1650年には殺戮と毒草による集団自決でアラワク族は島から一人もいなくなった。
これらの事実は「インディアス史」を書いたキリスト教の司祭バルトロメー・デ・ラ・カサスからわかる。
コロンブスとアラワク族との間に起きた悲劇は南北アメリカで繰り返される。
スペイン人征服者エルナン・コルテスとフランシスコ・ピサロはアステカとインカの文明を滅ぼした。
1607年イギリス人入植者はバージニアとマサチューセッツにたどり着いて、同じことをした。
最初かれらが街を建設したのはインディアンの土地だったが、インディアンには土地の個人所有という考えはなく、
抵抗されなかった。冬の飢餓には入植者500人が60人に減るほどだった。
入植者の中にはインディアンの集落に助けを求めるものもいた。(後に彼らの返還をめぐって争いがおきたりもした)
入植者が増えるにつれてインディアンの敵意は高まり、1622年インディアンが入植者347人を殺し全面戦争になった。
イギリス人入植者はインディアンを奴隷化できなかった。そこは彼らの土地だったから。
だから全面的に闘い滅亡させようとしたのだ。入植者が欲していたのは彼らの土地だった。
またヨーロッパ人にもちこまれた疫病で多数のインディアンがなくなり、入植当初1000万人いたとみられる北アメリカのインディアンは100万人以下になったといわれている。
コロンブス以前の南北アメリカ大陸には7500万人のインディアンがおり、何百もの異なった部族文化と約2000もの言語をもち、大多数は狩りをして食べ物を集めながら移動する遊牧民だった。中には農耕民として定住している部族もおり、場所によっては人口密度はヨーロッパ並みだった。女性の地位が高く尊敬されており、子どもは自立するように育てられていた。おきてと詩をもち、文化の高い人たちだったのだ。


第2章 アメリカの大問題、人種差別と奴隷制のはじまり
人種問題はこうもいえる「白人と黒人が憎しみ合わずにともに暮らすことは可能か?」
この質問に答える為に最初にアメリカ大陸へやってきた白人と黒人ははっきりしている。
白人入植者はインディアンほど、上手にトウモロコシを育てられない。インディアンを野蛮人だと思っている人々には癪にさわったろう。またインディアンから学んだタバコが、ヨーロッパで高値で取引されるようになり栽培の労働力が必要だった。
しかしインディアンは奴隷化できない。すぐに逃げ出してしまう。こうしたねたみや怒りが奴隷を使う立場になりたいと入植者をかりたてたろう。奴隷労働力として黒人をつれてくることは南北アメリカの他の植民地ですでにおこなわれていた。奴隷貿易はコロンブスのアメリカ到着より50年も前にはじまっていた。
連れてこられたアフリカ人は土地や文化と切り離され無気力であった。ただしアフリカ文化は決してヨーロッパ文化より劣っているわけではなく、マリ帝国はヨーロッパ諸国が近代化をしていたころ、すでに安定した国を築き上げていた。
奴隷制はアフリカにもあったが、アメリカの奴隷制が罪深いのは、「もっと儲けたい」という強欲さの上に隆盛の一途をただっとことと、黒人は白人より劣っているという人種的偏見のために世界でもっとも過酷な奴隷制だった。
奴隷貿易が多くの利益を生んだため、1800年までに1000万から1500万の黒人が南北アメリカ大陸に運ばれた。
船にのせるまでのひどい扱いも黒人を無気力状態にしていた。
奉公人になった黒人もいるが、白人の奉公人と扱いはちがって(ひどい)いた。
しかし、植民地アメリカにも同じ問題をかかえている白人と黒人がいて、自分たちの主人が共通の敵と感じた時差別はうまれない。差別は決して自然な感情ではない。
黒人の抵抗もあった。数こそ多くないが黒人の反乱や未遂は農園主を恐れさせていた。ときには白人が参加することもあった。
統治者が一番おそれたのは貧しい白人と黒人が結束することだった。そこで彼らは貧しい白人に新しい権利と恩恵をいくらか与え、年季をおえた白人は土地をもらえることになった。こうして彼らが黒人と結束する可能性をさげたのだ。これは奴隷制のワナであった。


第3章 一握りの金持ちのための社会
1676年のバージニアでおきたベーコンの反乱は、インディアンと白人特権階級にむけられた社会的地位の低い白人と黒人奴隷の反乱だった。イギリスは兵士をおくり、ベーコンが病死したこともあり、反乱は終わった。
社会的地位の低い白人のほとんどは渡航費用を年季奉公で支払う契約で海を渡った年季奉公人である。しかし劣悪な環境を生き延びて新大陸にたどり着いても、ムチでうたれ、暴行をうける生活がまっていた、逃亡が続出していたらしい(当時の新聞)。年季をつとめあげて自由になっても、裕福な入植者になれた例はほとんどないという。
植民地時代に階級制度ははっきりしており、イギリスのように少数のものがもっともよい土地と富の大半を手にする世界になっていた。18世紀の発展も上流階級が利得のほとんどを手にして、政治権力を握ったままだった。
1770年のボストンでは人口の1パーセントが富の44パーセントを保有していた。
一方で貧民収容施設はいっぱいで、路上には物乞いがいた。
イギリスは戦争で植民地の富裕層に富をもたらしたが、大部分の入植者には高い税金と失業と貧困を招くばかりだった。
1760年代までに富裕層を恐怖させたのは、インディアンの敵意、奴隷暴動、貧困白人の怒りである。これらが手を結ぶとやっかいである。
このため、自由な黒人がインディアンの領土を旅行することを禁止し、インディアンを買収して逃亡奴隷を引き渡させたりした。
そして貧困白人と黒人奴隷を結束させないために、人種差別が利用された。
上流階級は植民地の発展とともに成長してきた白人中産階級を楯にしたかったが、自分たちの富を分け与えるのは嫌だった。そこでもちだされたのは「自由と平等」だった。


第4章 「建国の父」たちの素顔
アメリカ独立革命は画期的な作品であった。それは「アメリカ合衆国」をつくって、イギリス代表として植民地を治めてきたものが統治をひきついだのだ。そして200年、きちんと機能している。
1765年からの7年戦争でイギリスはフランス(インディアンと組んだ)に勝利し、アメリカはフランスの影響下からはずれるが、線ピピのつけはアメリカにやってきて、貧者を増やしていた。ボストンでは印紙税法に抵抗して暴動がおきた。
1760年までに各地に「エリート」と禹よばれるものたちが出現。地元の政治的社会的指導者で、弁護士や医師、作家といった教養ある人たちである。彼らは暴動で植民地社会がひっくり返り、地位や財産がなくなるのを恐れていた。そこで、暴動のエネルギーをイギリスに向けさせようとしたとして説明されていた。
ボストン茶会事件、パトリック・ヘンリーの演説、トマス・ペインの「コモン・センス」一連の独立への動きのなかで、人々の植民地支配層(富裕層)への怒りはうまくイギリスへの怒り、独立戦争へと誘導されていったとしていた。支配層は権力を手放す気はなく、一般大衆に権力をゆだねるつもりはなかったのである。
トマス・ジェファーソンの「独立宣言は平等を訴えたが、その対象にはインディアンや黒人奴隷、女性は含まれていなかった。(黒人についてはジェファーソンは奴隷貿易を禁止しなかった政府を非難しようとしたが、削られたという)しかし、人道的な誤りで独立宣言をあげつらうべきでないといっていた。要するにイギリスを打ち破ることを一般大衆から十分に賛同を得ておきたいという植民地のリーダーたちの思惑がはいっているのである。宣言に署名した3分の2以上がイギリス統治下の植民地政府の役人であった。
独立軍への徴兵も富裕層は金を払って代理をたてればよかった。


第5章 合衆国憲法は本当に画期的だったのか?
法律家ジョン・アダムズは独立戦争を支持していたのは植民地の人々の3分の1といい、現代の歴史やジョン・シャイは総人口の5分の1といっている。
独立戦争を実際に戦った兵士は志願兵もいたが、兵役の報酬と軍での昇進をのぞく下層階級の白人男性だった。
独立軍は初期の戦闘は敗北したものの、フランスの援助をえて巻き返した。
実はこの戦争の間にも兵士や小作人の反乱は続いていた。革命軍はイギリスに忠実だったものたちの富をとりあげ、これらの人々にもわけたが、ほとんどは自分たちの懐にいれた。小規模な土地所有者にはわずかな利益はあったが、大多数の貧しい白人層や小作農にはなんの利益もなかった。
インディアンは1763年にイギリスとの間でアパラチア山脈西部の土地はインディアンのものであると認める約束をとりつけていたので、イギリスについて闘うものもいた。アメリカが勝てばさらに土地がとられてしまうと思ったのだ。
黒人奴隷は独立軍にはいるものもいた(当初はジョージ・ワシントンに拒否されたが、最後には加わった)が、イギリスについたものも多かった。自分たちの要求を白人社会に訴える機会が得られ、マサチューセッツでは7人の黒人が投票権をもとめて議会に訴え出た。独立戦争後北部諸州で奴隷制が廃止されたが、完全な廃止には年月が必要であり、南部ではむしろ拡大していった。
独立戦争後にも、インディアンの居場所はなく、黒人は白人と平等ではなく、権力と財産をもった白人が万事を決定するというパターンが国家の法律として組み入れられる。
独立戦争を戦っても俸給もうけとれなかったもの、税にあえぎ、借金のため土地や家畜が判決でとりあげられたものなどが不満を募らせ暴動をおこしていた。富裕層はこうした暴動を恐れていたのだ。だから憲法にも自分たちをまもる方法をとりいれた。
憲法の起草した55人の大半は富裕層であり、その半数は貸金業で法律家も多数いた。女性や奴隷、年季奉公人、財産のない貧しいものを代表する人ははいっていなかった。
国民が直接選ぶことができるのは下院議員のみ、しかも各州が選挙資格を定められ、財産がなければ投票できなかった。
しかし、もっと深い問題は社会が貧者と富者にひきさかれていることだった。
各州が憲法を批准するとき、強力な中央政府に賛成なものもいたが、13州はどくりつしてゆるい結びつきの方がよいという考えもあった。中央推進派は連邦主義者とよばれ、アレクザンダー・ハミルトンが有名だが、かれは社会は階級にわかれるもので、少数の支配層が大衆一般を統率すべしとしていた。ジェームズ・マディソンは「暴動や反乱は州はひっくりかえしても、国はひっくりかえせないから中央政府をもつべきだ」と主張。財産のあるひとたちは、財産をまもるのに中央政府が必要と考え賛成した。
さらに連邦会議が「権利章典」を可決してからさらに広くうけいれられた。
権利章典は新政府を国民の自由の保護者であるかのように思わせ、言論・出版・信仰の自由・公正な裁判を受ける権利をうたっているが、7年後には言論の自由を統制する「治安法」を定めている。約束破りなのである。
また公債(富裕層がもっている)を返すために税金をかけ、一般国民がウィスキー税などのあらたな税を負担した。
建国の父たちは存在したバランスを崩したくなかった人たちだったのだ。


第6章 初期アメリカの女性たち
初期アメリカでは女性は見えない存在だった。
ヨーロッパの習慣のまま、地位が男性より低く、イギリスでは結婚すると夫は主人となるのだ。
マサチューセッツ湾植民地のアン・ハッチンソンは自分はどこも男性におとっていないと主張して宗教裁判にかけられている。
女性が公の地位につくことはなかったが、独立戦争中には公職につく女性もあらわれた。また、暴動に主体的に参加するものもいた。辺境では専門的な技能者は常に不足しており、女性が担うことになる。
工業が経済の中心になると女性は工場で働くようになるが、家庭で夫の要求を満たすことが完璧な女性であるという宣伝もされていた。
19世紀には多くの女性が紡績工場で働くようになり、紡績労働者の8-9割は15-30歳の女性になった。初期ストライキのいくつかは紡績工場の働く女たちによっておこされた。
少しずつ女性の社会的地位は変わり始め、財産も大学への進学もできなかったが、小学校教師になることはできて、多くの女性教師がうまれる、1821年位少女専門の教育施設ができて、28年後に女性初の医学博士が生まれる。
雑誌に寄稿したり、雑誌を創刊したり、1780年から1840の間に、読み書きのできるアメリカ人女性は2倍に増えた。宗教組織や保健衛生の改良運動に加わり、もっとも強靭なものは奴隷制反対運動に加わった。これらの活動から大きな目標のために団体を組織し意見を述べ、行動を起こすということを学習し、女性の権利拡張運動で活かされる。
各地で女性の権利拡張運動は勢いを増していく。


第7章 欲深き指導者たち
アメリカ独立戦争のあと、アパラチア山脈の西部にも白人入植者が住むようになり、さらに西に進もうとしていた。
こうした欲望の結果がインディアン移住政策である。
独立革命後、裕福なアメリカ人はフロンティアの広大な土地を買いあさった。転売するための投機買いである。
土地投機者には初代大統領ジョージ・ワシントンやパトリック・ヘンリーのような建国の父もいた。
1828年第7代アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンと彼が後継者に指名したマーティン・バン・ビューレンによる政策であった。
彼は貿易商として奴隷を売買し、軍人としてインディアンと闘い、時には策略(他のインディアンの部族に友好を約束したりする)、時には武力、時にはワイロを、時には約束を反故にするペテンを使い、アラバマ・フロリダの4分の3、テネシーの3分の一、他の4州の一部を白人のものにした。またインディアンに土地の所有という芸念を持ち込んだのでインディアン同士の争いを起こすことにも成功した。こうして切り取った土地を友人たちと買いあさり土地投機にはげんだのである。
インディアン移住政策とは、ミシシッピ東部のインディアン7万人を移住させるというものだった。南部ではインディアンと白人は友好的に暮らしていたが、政治家や大事業家、土地投機者、鉄道や都市を必要とする人口増加の圧力で衝突がおきつつあった。インディアンとの契約は連邦法であったが、ジャクソンはこれを無視。各州が州法でインディアンの処遇をきめられるようにしてしまった。そのため土地の所有をみとめられなくなったインディアンたちは、新しい連邦政府の申し出「ミシシッピから西にうつれば永遠にその土地はインディアンのものである」にのって移住したのである。それでも立ち退かない人たちには買収や空約束でおいたて、移住の援助もせずに大勢のインディアンを殺した。中には戦いを選ぶものもいたが巨大国家の前に粉砕されていった。
ジョージアのチェロキー族は移住しないで白人社会にとけこもうとしたが、州はかれらから土地をとりあげ、集会や新聞を非合法にして、移住をすすめないものを白人も含めて投獄していった。さいごには1万7000人が包囲され軍隊によって強制的に移住させられたが、移動の途中で4000人が命を落とした。しかし、第8代大統領マーティン・バン・ビューレンは「チェロキー族の移住は、大変満足のいく結果にあいなりました」と連邦会議で述べている。


第8章 メキシコ戦争
1803年トマス・ジェファーソンがルイジアナを購入してアメリカ合衆国の面積は2倍になったが、1845年には西の国境線はロッキー山脈まで、南西にはメキシコが1821年にスペインから独立していた。
当時のメキシコはテキサス、ニューメキシコ、ユタ。ネバダ、アリゾナ、カリフォルニア、コロラドとワイオミングの一部を含む大きな国だった。
領土拡張主義者の新聞記者ジョン・オサリバンは「増え続ける国民の自由な発展のため、拡大するのは天命である」と述べた
。領土拡張は多くのアメリカ人の思い込みとなっていたのだ。
第11代大統領ジェームズ・ポークは「カリフォルニアを合衆国に組み込むのが目標」と述べていた。
細かい経緯がのべられていたが、結局アメリカは奴隷州を獲得するために、戦争準備をし、巧みにメキシコにしかけさせて宣戦布告をして、国民感情に訴えて多くの志願兵をあつめたと述べていた。
一握りの人たちが、本質を指摘して反戦を訴えた。また当初殺到した志願兵もしだいに少なくなり、報酬つき、あるいは戦争終結後土地を与えるという約束がないと兵士があつまらなかったという。
実際行軍は辛酸をきわめ病死するものも多く、戦闘ははげしく、多くの脱走兵がいたという。最終的には9000人が脱走した。
上官にはむかうものもあったという。死傷者も多く、マサチューセッツ志願兵団というグループは630人で故郷をでたが、帰還できたのは300人、おもに病気で亡くなった。帰還パーティではしーっという声で上官を非難していたという。
帰還で来て土地をもらえても即金が必要な兵士たちはすぐに土地投機者たちに売却するしかなく、儲かったのは土地投機者だけであった。
メキシコが降服し、アメリカはメキシコから南西部全域とカリフォルニアを譲渡されることになり、引き換えに1500万ドルを支払うことになった。これをもって、土地は平和裏に購入されたという人たちがいるが、実際には血なまぐさい戦争があり、多くの兵士やメキシコの民間人が亡くなったのである。


第9章 アメリカ政府が黒人にしたこと
アメリカが奴隷制を支持していたのは南部の経済主に綿花が奴隷制に依存していたからである。
1808年アメリカ政府はあらたな奴隷の輸入を法律で禁じたが、この法律はしばしば破られ25万人が不法に輸入されたといわれている。
厳しい生活に絶望し、反乱を起こすものもいたが、アメリカ軍と民兵に平定され処刑された。
1850年代には年間1000人が北部に逃亡した。「地下鉄道」という組織が支援したいたらしい。
当局がもっとも警戒していたのは貧困白人層と黒人が結託することで、そのため運河が建設されるときアイルランド系労働者と黒人は別々に働かされていたという。
奴隷に同情する白人は奴隷氏廃止論者とよばれる。新聞や演説、逃亡支援などをおこなっていた。しかし主力は北部自由州に住む黒人の廃止論者である。北部には20万人の黒人がいた。彼らは南部の奴隷所有者から迫害をうけた。
政府は奴隷貿易廃止には熱心でなかったが、逃亡奴隷を取り締まる法律には熱心だった。アンドリュー・ジャクソン政権下では南部から奴隷廃止論の新聞をしめだしすらした。このような政府が奴隷制を廃止するはずがない。
エイブラハム・リンカーンは奴隷に同情はしていたものの、最初は奴隷制廃止論者ではなかった。彼は北部の実業界の要望と結成されたばかりの共和党の野心を代弁しており、慎重に奴隷制反対を唱えた。彼は白人と黒人が平等とは考えていなかったと書いてあった。
南北戦争は北部の実業家やエリートによる、自由な土地、自由な労働力、製造業に有利な税制をもとめる動きと、南部の大農園主たちの既得権との利害対立から発生したのであり、奴隷解放の戦争ではない(リンカーンがそういっている)
しかし、戦局が厳しくなると奴隷制廃止をカードとして使うようになる、南部諸州への打撃を与えるため1963年奴隷解放宣言がだされ、二年後には法的に奴隷は自由になる。
しかし、奴隷解放戦争へとかわっていく戦争でたたかわされる貧しい白人は黒人を憎むようになり、黒人兵士はもっともつらい持ち場を与えられた上に路上で襲撃されたりした。
南北戦争ではアメリカ総人口3000万人のうち60万人が死亡した。
南部が敗北したのは兵士不足だったといわれている、奴隷は400万人いたが、兵士にできなかったのだ。
奴隷解放が政治の議題になったことで、新しい勢力「人種的平等を実現しようとする白人」「自由を確固たるものにしたい黒人」「黒人票がほしい共和党」が台頭し、一時的に黒人の投票権がみとめられ議員が登場するようになった。
戦争は終結したが、貧しい黒人が生きるには白人に仕事をもらうしかなく、立場はほとんどかわらなかった。白人の黒人に対する暴力は特に南部で続いていたが連邦政府は積極的に黒人を保護はしなかった。投票権は黒人にも与えられたが、暴力や金銭で買いあさられたりした。
アメリカ政府が南部奴隷州と戦ったのは、南部の広大な土地と資源、市場を支配するためだった。だから共和党支配をうけいれる白人が支配する南部に「うまみ」を感じ、票とひきかえに連邦軍すら撤退させ、各州が黒人の法的権利すら奪おうとしていた。黒人は再び貧困と暴力にさらされ、南部をはなれたり、自衛するようになる。
経済の発展した北部の資本と、南部富裕層がくみ、1900年までには黒人から選挙権をはく奪し不平等に扱う法律が制定される。
アトランタ大学の黒人学者W・E・B・デュボイスはこの裏切りを、アメリカでおきつつあるより大きな現象「搾取」の表れといった。そして投票権は与えられていても貧しい白人もまた政治家や強力な事業家から不当に搾取されていると考えた。
アメリカの資本主義は黒人だけでなく、白人も奴隷にしているというのである。


第10章 政府はだれのもの?
19世紀のアメリカで戦われたのは階級闘争だ。
しかし歴史の教科書に載っているのは民主党と共和党の戦いだ。両方とも社会権力を握る層の代表者たちだ。

アンドリュー・ジャクソンは時分は労働者や農民の代弁者であるといった。もちろんインディアンや黒人奴隷の代弁者ではない。
幅広い白人層から支持を得る為に考え出されたのがジャクソン・デモクラシーという神話である。
この神話から人々は自分たちは政府に発言権をもち、政府は自分たちの利益に奉仕するものと信じるようになった。
このために政府は自分たちは下層階級と中産階級を代弁するものといったのだ。
実際には共和党と民主党のどちらかを選ぶ機会を与えただけで、少しばかりの選択権をあたえ、決してたくさんではなく、わずかに与える方法で国を支配しようとしていたのだ。
アメリカは熱狂的に成長し、都市型国家にかわりつつあった。都市部にすむ人は1790年には100万人に満たなかったが、1840年には1100万人になっていた。
年には不衛生で狭い安アパートやスラムがあり、最下層の貧しいものたちが住んでいたが、かれらは政府にあてにされることはなかった。かれらが相手にされるのは暴動を起こしたときだけだ。

拡大する経済は人間の思い通りにならず、しばしば不振と失業に襲われる不況期がくりかえされた。
企業家達は経済を安定させ、競争をひらそうと手をくんで、政府と結託して富を増やした。
しかし政治や経済はそう簡単にコントロールできず、長時間労働や物価高、みじめな暮らしはしばしば労働者たちを暴動へかりたてた(相手は富裕層だけでなく、黒人や移民であることもあった)が、組織化されることはなかった。

1829年のフィラディルフィアの労働者集会がをさきがけに、労働者たちは職業別に団結し、組織をつくり、ストライキを起こして交渉をするようになった。しかしアメリカ生まれのプロテスタント労働者とアイルランド移民のカソリック労働者の内部分裂。また黒人は労働者階級の組合活動家でさえ無視していた。
労働運動に熱心だったのは織物工場の女性だった。ストライキをを武器に労働条件の向上(それでも一日10時間労働)をめざして多くの戦いが展開されたが、要求が通ることはあっても組合じたいの存続はみとめられなかった。
南北戦争では、北部労働者の賃金はすえおかれたまま高くなった物資を買わなくてはならず、各地でストライキがおきた。また奴隷解放は富裕層をさらに豊かにするだけと思っていたし、連邦軍への徴兵も不満をもっていた(富裕層は300ドルで免除されていたのだ)南部でも徴兵制への不満はあり、怒りを金持ちや黒人、共和党員にむけた暴動が発生した。

南北戦争の間にリンカーンと連邦議会は、外国製品の関税をあげて富裕層が商品を値上げできるようにし、アメリカへの渡航費と比嘉家に外国から労働者を雇えるという法律、またダムや鉄道、運河のために国民の土地を強制的にとりあげられるという法律をつくった。
一方で労働者の健康や安全を守る法律は作られず、劣悪な環境で死んだ労働者がいても雇い主は罪に問われなかった。
南北戦争がおわり1870年代は不況の時代だった。1877年鉄道会社の労働者が一連の大ストライキをおこし、最終的に100人の死者と1000人の投獄者がでた。10万人がストに参加した。要求は少しは通ったものの黒人同様約束がまもられることはなく、労働者は私的資本と政府の結託に対抗できる力が自分たちにないことを思い知る。


第11章 格差のピラミッド
19世紀後半のアメリカは人類史始まって以来の飛躍的経済成長がつづき(蒸気機関と電気によるもの)、その発展の労働力となったのは新たな移民たちだった。かれらは先にわたってきたものから差別され、ときには殺害されることもあった。
成長から生み出される富はピラミッド構造をつくっており、移民たちが底辺。頂点には新しい大富豪億万長者がいた。

大富豪には底辺から上ったものもいたが、ほとんどが上流階級または中産階級出身だった。
彼らは政府と裁判所の力で巨万の富を築いた。エジソンはニュージャージの政治家に一人1000ドルをくばり、鉄道会社は20万ドルのわいろでただで土地を政府からもらい、一日1ドルか2ドルで労働者をやとった。
やり手の実業家たちは「泥棒貴族」とよばれた。イギリスの追いはぎ貴族のように強引で富の大半を貪欲で不誠実な手口でえていたためである。商品は髙く、労働者への賃金は安くおさえて市場の競争に勝ち、自分に有利な法律や税制で政府から援助をうけ、産業分野ごとに帝国を築いていた。政府は中立をよそおって彼らと結託し、上流階級の争いをうまくおさめながら下層階級を支配しようとしていた。

企業の独占をおさえようとした政治家もいた。反トラスト法を提案したジョン・シャーマンなどである。
この法律は社会主義がいきすぎないように資本主義を修正するのをねらっていたが、アメリカの最高裁判所は法律をを骨抜きにしてしまう。裁判所の判事でさえ、社会の富が少数の者にゆだねられるのを認めていたのだ。学校・教会・企業は今の体制はただしく、貧困は個人の怠慢の結果であり、資本主義は正しいと宣伝した。
こういった考え方を受け入れない人々、社会主義体制をとくもの、無政府主義や、抗議運動をおこなう人々もいた。

1886年結成から5年目の労働組合アメリカ労働総同盟が全国的ストで8時間労働をかちとろうとした。約35万人がストにはいった。ヘイマーケットでは集会に爆弾がなげこまれたり(犯人とされたのは無政府主義者だったが証拠もなく有罪にされた)、警官が発砲する騒ぎがおきた。しかし労働運動はつぶれず(各地で鎮圧されたもののほかでまたおきるというように)広がりをみせていく。農民たちも労働組合に似た組織をつくり、かれらの活動はポピュリズムとよばれるようになる。やがて鉄道運賃と銀行利子の統制をもとめるなどの活動をおこなっていく。しかし人種差別の問題は内部で統一がとれず分裂した。
1896年位出版と企業が巨額の資金を投じて大統領にした第25代ウィリアム・マッキンシーも階級の怒りをうやむやにしようと、アメリカ人の愛国心に訴えた。そして星条旗と財政的栄誉を守ろうとしていることを喜ばしいとした。


第12章 軍事介入好きな国、アメリカ誕生
資本主義はいつもさらなる市場をもとめる。そして国内の不満をそらすためにも戦争は好都合なものであった。

メキシコ戦争しかり、モンロー主義(南北アメリカに影響力を及ぼし、ヨーロッパをけん制する)しかり、アメリカは他国の問題に積極的にかかわり介入してきた。
キューバでスペインに対する反乱がおきたときも、人道的な見地より、利権が優先され、スペインを追いだしたものの、アメリカはキューバ人反乱者などなかったようにキューバを支配した(政府はキューバ人がつくったが、アメリカ軍がいたし資本もすべてアメリカ人がもっていた)。この方法でアメリカはプエルトリコ、ハワイ諸島、グアム、フィリピンへと触手を伸ばす。
フィリピン人は抵抗したが3年後鎮圧されてしまう。
国内の反帝国主義者たちはフィリピンの戦争がいかに悲惨で邪悪であるかしらせるために、従軍した兵士の手紙を出版した。
また、黒人の中にはフィリピン人が差別されるのをみて葛藤し、反戦に動くものもいた。



学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈上〉1492~1901年

学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈上〉1492~1901年

  • 作者: ハワード ジン
  • 出版社/メーカー: あすなろ書房
  • 発売日: 2009/08
  • メディア: 単行本



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