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平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書) [雑学]

平家物語を現代語風に解説した本。時代順に主な事件をおう形ですすめてあり、だいたい一つの解説が4ページ。
イラストは横山光輝のマンガを使っている。

平家物語の出だしは知っていても、物語そのものを知っている人は少ない。
都落ちしたあと平家が一時盛り返す話題や、源氏と平氏といってもその中身は特に源氏では身内争いが多く、摂関家の身内あらそいとともに複雑な経緯をたどっている。
読み本は「延慶本」、琵琶法師の平曲をもとにした「覚一本」両方を参照したといっていた。


第1部 平家物語のキソの基礎
成立・・・1240年ごろまでには「治承物語」という短編になり、そのご加筆訂正され12巻にまとめられたといわれている。

作者・・・「徒然草」に信濃前司行長という記述があるが、諸説あり確認されていない。

琵琶法師・・・平家物語の少しまえから活動してた琵琶をを伴奏にしながら物語を語る盲目僧形の芸人。他の軍記物も語っていた。有名になったひともいたが多くは貧しく地方を語り歩いていた。

無常観・・・貴族から武士の時代にうつる激動の時代にひろまったとされる。この世のすべのものは消滅しては移り変わり永遠に同じ状態でとどまることはありえない。執着から解き放され心の安楽を得ようという仏教の根本思想。

平家物語の登場人物が次々出家していくのも無常観とともに浄土思想(来世において阿弥陀力がおさめる極楽浄土に往生することを解く教え)が流行したことにもよる。

平清盛は平家物語では悪役だが、実際には有能な人物であり、国際感覚に優れていた(日宋貿易)

10世紀ごろに地方で山賊や海賊、地主同士の闘争などのために武装するものがでてきた。
源氏は清和天皇を祖とする、平家は桓武天皇を祖とする家系で、中央で貴族になるもののほかに地方で武士になるものがいたのだ。中央とのつながりもものをいって武士団を組織して政治にもかかわるようになった。

年表
西暦、和暦、事件・合戦、平氏、源氏、皇族・貴族・僧にわけて記述。

平家と源氏の略家系図
皇室の略家系図、白河天皇から後鳥羽天皇まで


第2部 「平家物語」を読む

第1章 平家一門の栄華
人物相関図、平家一門は清盛中心に、皇族は後白河法皇中心に、反平家勢力は西光、藤原成親などを中心に

殿上の闇討ち・・・藤原氏全盛時代、地方の受領でしかなかった平家だが、清盛の父忠盛は、伊勢で蓄財した金で寺院を建立して鳥羽上皇に寄進して気に入られ、殿上人(宮中への昇殿を許される人)になった。快く思わない貴族はいじめたり笑いものにしたりしたあげく、闇討ちをくわだてるが、気がついた忠盛が木刀に銀箔を張って儀式に望み難をのがれる
平家の台頭・・・忠盛のあとをついだ清盛は、保元・平治の乱で活躍出世していく。
 保元の乱、鳥羽上皇の時代、後白河天皇と崇徳上皇が対立、摂関家と平氏と源氏もそれぞれについて争った、後白河天皇の勝利となったが、天皇についた源氏である源の義朝は、父と弟を敵に回したのに期待した恩賞があたえられなかった。
 平治の乱・・・保元の乱の恩賞に不満をもつ藤原信頼と源義朝が反乱。後白河上皇(退位して、天皇位を息子の二条天皇に譲っていた)と二条天皇を幽閉。清盛は一時反乱軍に従うふりをして二人を救い出すと、反攻を開始。反乱軍は敗れた。この源義朝の3男が頼朝で、本来処分されるところを、清盛の継母池禅尼にたすかられ、流罪になった。源氏は衰退する。

平家の栄華・・・平治の乱のあと、清盛は8年の間に参議検非違使別当(検察長官)から中納言、大納言、丞相、トップの従一位太政大臣にスピード出世。50歳だった。一門もみな出世して左右の大臣を平家がしめ、30人足らずの公卿のうち16人が平家という状態、各省庁や地方の受領も半分平家であり、清盛の8人の娘は摂関家や有力貴族に嫁いだ。なかでも徳子は後白河上皇の皇子高倉天皇の后となり安徳天皇を生む。清盛の妻時子の兄、平時忠が「平家一門でない人は人ではない」と言い放った。また平家の悪口をいうものをとりしまるため、14-16歳の少年に300人に赤い着物におかっぱ頭にして密偵として京都に解き放った。これは「禿髪(かむろ)」と呼ばれた。

祇王と仏御前
清盛の愛人の白拍子祇王は、自分がとりもってあわせて白拍子の仏御前に清盛の寵を奪われ、辱められて嵯峨野の山里に母親と妹と隠棲、21歳だった。しかし数年後仏御前も自分の身のはかなさに耐えられず祇王のあとを追って出家し、念仏三昧の日々を贈った。
祇王が清盛に願って作った灌漑用水祇王井川は今も残っている。

額打論・・・二条天皇は後白河上皇から政治を取り戻そうとするが、若くして亡くなり、二歳の息子六条天皇があとをつぐ。二条天皇の葬儀で、各自身が陵墓の周辺に自分の寺の額をかけることになっており、順番が決まっているが延暦寺が興福寺をとばしたため、争いが勃発。延暦寺の額がめちゃめちゃにされ、興福寺の末寺清水寺がやきはらわれる。一時白河上皇も清盛の六波羅に避難する事態となった。そのご上皇が「平家討伐を延暦寺に命じた」とうわさが広まり、上皇と清盛の仲もぎくしゃくする。そのご六条天皇が退位して上皇の第3皇子高倉天皇が即位。高倉天皇の母は清盛の妻時子の妹である。

殿下乗合(てんがののりあい)事件・・・平重盛の次男資盛(すけもり)が摂政藤原基房の一行と出くわしたとき馬をおりなかったため、辱めをうけた。筋は基房の方が通っていたが、清盛の命令で武士たちが基房の護衛に仕返しをした事件。あとで、重盛が「こちらが悪い」と実行者を処分して、資盛を伊勢に追放したことになっている。平家物語が清盛の悪行としてつたえているが、実際は重盛が命じたことともいわれている。

鹿ケ谷事件・・・平家の台頭を快く思わない一派(藤原成親、西光法師、俊寛僧都、平康頼)がおこした反平家の陰謀。途中朝廷と比叡山のあいだの衝突があり、中断(平家と比叡山は協力関係にあり、比叡山の力を弱めようとしたといもとれる)。その後仲間の一人が密告して清盛のしるところとなり、西光法師は斬首、藤原成親は流罪先で変死、他は喜界島(鹿児島県硫黄島)に流罪になった。会合には時に法皇を加えていたといい、清盛は後白河法皇の加担を疑っていたが、重盛がとめたので法皇の軟禁はあきらめた。

不吉な前兆・・・鹿ケ谷事件の翌年徳子が解任。容態がすぐれないため、生霊をしずめるとして恩赦がおこなわれる。鹿ケ谷事件の関係者も俊寛以外は恩赦された。平家物語には書かれなかったがその後俊寛は妻子が亡くなったとの知らせに絶望して絶食して餓死した。徳子は無事に皇子を産むが、厳島神社の御宣託では「悪行があれば栄華は子孫に及ばない」とされており、悪行をおこなったため、滅びがまっていることが暗示される。

重盛の死・・・「父清盛の悪心をやわらげて平家の栄華を子孫にまで手向けてください。さもなければ私の命を縮めてほしい」と熊野権現に祈願したあと病にたおれる。その後祈願がとどけられたものだとして、治療を拒否してなくなったという。物語では新人が厚く、予知能力があり、父の悪行を止めようとした人物として語られている。

治承三年の政変・・・ついに清盛が法皇への怒りを爆発させ、福原から軍勢を率いて入京。法皇を鳥羽殿幽閉という暴挙にでる。清盛があげた法皇の罪状は4つ(重盛の49日がおわっていないのに音楽祭を開催した、重盛の所領を没収した、清盛の推薦した人物より藤原元房の息子を中納言にした、鹿ケ谷事件に加担した)藤原基房は九州に左遷。思い通りの人事をおこなったあと、政務を宗盛にまかせて福原へ引き上げた。

安徳天皇の即位・・・1180年(治承4年)高倉天皇が20歳で退位、徳子の子ども(清盛の孫)安徳天皇が3歳で即位。清盛の命令によるものである。高倉上皇は清盛の怒りをやわらげようと厳島神社に詣でる、途中法皇と面会している。上皇・法皇といえど、清盛の手中にあった。

日宋貿易・・・当時正式な国交がなかったが、清盛の国際感覚で港を整備して貿易(宋銭、陶磁などを輸入して、砂金や蒔絵を輸出)を行った。平家物語で悪行を並べたてられているが、海洋国家を構想した政治家でもあった。

以仁王の挙兵・・・後白河法皇の第3子以仁王は即位の平家の血筋でないので可能性のないまま30歳を迎えていた。彼に源頼政(平治の乱で平家について生き延びた源氏の武士)が謀反を促し、諸国の源氏が味方すると説く。皇子は謀反を決意して平家討伐を命じる令旨(命令書)を出す。熊野では戦闘が勃発。清盛のもとに反乱がしらされる。
源頼政が謀反を決意したのは、子どもが清盛の3男宗盛に馬のせいでもめて馬鹿にされたからなど、諸説ある。
以仁王の反乱を知った清盛も最初は源頼政が加担しているとはおもわず、以仁王逮捕に頼政の親族を遣わしたくらいである、このため以仁王は女装して脱出した。このとき家臣の長谷部信連は一人屋敷にとどまり時間稼ぎをしたうえで、捕獲部隊を盗賊とおもったから反撃したのだと堂々と申し開きをした。感心した清盛は流罪にしてころさなかった。

宇治の合戦
1180年園城寺に脱出した以仁王のもとに3百余騎を率いて源頼政が合流。延暦寺・興福寺・東大寺を味方にしようとしたが延暦寺は清盛から大量の贈り物をうけており動かなかった。
宇治川の合戦では、橋板を外した以仁王軍に気付かず平家の軍勢が川におちたり、僧兵但馬の活躍で最初以仁王側がおしていたが、その後足利忠綱が「馬筏」とう馬の渡河技術で攻め入り、平家が勝利した。源頼政親子は自害。以仁王も打ち取られた。清盛の5男重衡が園城寺を焼打ちにした。

平家物語史跡ガイドの地図がのっていた。


第二章 源氏の反抗、平家の滅亡
人物相関図・・・平家一門は清盛・宗盛を中心に、源氏は頼朝中心と、木曽源氏にわかれていた。後白河法皇は木曽源氏の側に配置されていた。

福原遷都・・・以仁王の反乱の後、清盛が福原遷都を宣言。先祖桓武天皇が開いた平城京をすてて、安徳天皇と多くの公家をつれて福原移動してしまう。法皇も福原に再び幽閉した(以仁王に味方したとして)。貿易を活性化させ、寺社勢力と距離をとるつもりだったらしいが、福原には平地が少なく、引越しの費用は掛かり貴族たちの間には不満がひろがった。
平家物語では福原での怪奇現象をたくさんあげている。中でも平家の守護神である厳島大明神が神々の集まる会場から追放され、源氏の守護神八幡台菩薩が「頼朝に政権を与えよう」と発言、続いて藤原氏の氏神「春日大明神」が「その次の政権はわが孫に」と発言する夢のはなしが未来を暗示している。

頼朝挙兵・・・1180年9月、相模から頼朝挙兵の知らせが届く、清盛は13歳のとき平治の乱で打ち首になるところを流罪に助命してやったのにと激怒、追討軍をさしむける
頼朝に挙兵をうながしたのは文覚という謎の僧であったが、史実とは考えにくいそうだ。とにかく物語では挙兵をためらう頼朝にたった8日で福原まで往復し法皇の院宣(命令書)を届けたとされている。

富士川の合戦・・・1180年9月、頼朝討伐軍として、大将軍の維盛(重盛の嫡男)、副将軍の忠度(清盛の異母弟)侍大将の藤原忠清など3万騎が出陣。維盛の出陣姿は美しかったという。途中で兵を招集しながら富士川についたときには7万騎に達した。一方の頼朝は緒戦で敗退し房総にのがれたが、その後多くの武士があつまり、富士川に達したときには20万騎になった。関東武者の武勇を語る武士斉藤実盛のはなしで震えあがった平家は合戦前夜水鳥の音に驚いて逃げ出してしまう。都に戻った維盛は処分されるかと思えば昇進して、世間の失笑をかう。

南部焼き討ち・・・1180年12月、源氏との緒戦を敗北した平家は都帰りを決意。近江では近江源氏が反乱。平家は忠度以下2万騎で撃退。その後東大寺や興福寺との対立が深まり、僧兵が非武装の平家の使者を殺したのをきっかけに清盛が討伐軍をさしむける。夜だったので明かりを得る為に民家に火をはなったときころ燃え広がり有力寺院が焼け、東大寺の大仏の首がやけおち、少子3500人という大参事になった。これも清盛の悪行とされている。

小督・・・高倉上皇に仕えた女性であったが、清盛にうとまれ都を追放されてなくなる。こうした仕打ちと奈良の寺院の焼失などの心労がかさなり高倉上皇は21歳で亡くなってしまう。法皇と清盛の間に入ることのできる教養ある仁徳ある人物がまた一人なくなった。

木曽で育った木曽義仲は源義賢の子どもで頼朝のいとこにあたる。かれが挙兵すると、九州、四国、河内(大阪)でも謀反が勃発、平家打倒の火の手がひろがっていく。

清盛の死
全国で勃発する反乱に対し、平家が東国北陸の源氏討伐軍に宗盛を選んで出発直前。清盛は高熱におそわれ「熱い、熱いといいながら」死んでしまう。人々は悪行の報いとウワサした。清盛は「頼朝の首がみれなくて残念だ」と言い残してなくなる。
平家物語は清盛の追討話群をのせている。
天台宗の仏法を守るために閻魔大王から高僧の化身として差し向けられたとか、実は清盛は白河上皇のご落胤だなど

義仲挙兵
平家の総帥は3男宗盛になる。後白河法皇の幽閉を解いたり、東大寺の大仏殿を再建しはじめるなど融和策もおこなうが、一度上った反乱の火種は消えず、東国はすべて源氏の支配下にはいる。
神仏も源氏に味方し、義仲を打とうと出陣した武将が落馬でなくなったり、祈祷がうまくいかなかったりと不吉な表現が続く。
横田河原で平家がたの城四郎助茂は4万騎で3千騎の義仲を打とうとする。
しかし、義仲は平家の赤旗をかかげて近づき奇襲を繰り返し、勝利を収める。
このころには寺社や地方では平家の命令をきなないところが増えていた。
義仲は頼朝と仲たがいして10万余騎の軍勢をさしむけられたがきりぬけると京都をめざした。

倶利伽羅峠の合戦
1183年、平家は源氏を打とうと兵をあつめるが応じたのは西日本の武将のみであった。
なんとか討伐軍10万をさしむける。
加賀の篠原で義仲軍5万と対峙するが、兵力で叶わないと悟った義仲は奇策をもちいる。策を行う前に八万菩薩に戦勝祈願をすると雲間から山鳩がきて白旗の上を旋回したという。
義仲は平家群を岩山に囲まれた場所におびき出し、夜大声をあげて狼狽させがけ下に落とす作戦をとる。
平家は7万騎を失って惨敗。そのご残党にも勝利する。
このとき老武者の斉藤実盛は錦の直垂(彼が越前の出身だったので)で最後まで奮戦した。のちに世阿弥が作品にしている。

そんな中、比叡山も平家も見限って源氏につく。

都落ち・・・倶利伽羅峠の合戦から2か月後、比叡山と義仲が結託して今日に攻め込もうとしているとの知らせに、一門は決戦か都落ちかもめたあと、都落ちを決意。しかし法皇はにげだしてしまい、平家は安徳天皇のみをつれて都落ちを決行。物語はそれぞれの別れについて書いている。
重盛の嫡男維盛は妻子を都に置いていく
清盛の異母弟忠度は歌人藤原俊成に歌を託し、俊成はその歌は千載和歌集に匿名でのせる。
清盛の異母弟頼盛は、頼朝を救った池禅尼の子どもであったため、京にのこることにする。
一門は福原に集結すると船で西国をめざす。

義仲の絶頂
比叡山の後白河法皇を伴って堂々と都入り、法皇は高倉上皇の皇子四宮を後鳥羽天皇(承久の乱の天皇)にたてる。平家に三種の神器の返還をもとめるが拒否される。
義仲は「朝日将軍」の称号を授けられ、平家の役職はすべて奪われる。
平家一門は大宰府につくが、高千穂明神のご神体である大蛇の子孫として知られる緒方惟義に攻められ福岡を転々としたあと、四国・讃岐の屋島におちつくが、船に分乗したままの生活であった。逃避行のなかで重盛の3男清経は入水自殺する。
一方義仲は都入りしたものの、田舎者とバカにされ、兵士の略奪などで評判をおとしていた。
それを非難した頼朝の人気は高まっていた。

水島の合戦
屋島に落ち着いた平家は瀬戸内海を制圧するまでに勢力を回復。義仲は追討軍をだすが、平家は船をつないで船上を移動できるようにする作戦で勝利をおさめる。
義仲みずから1万騎で反撃にでるが、倶利伽羅峠の合戦で味方になった兵士の裏切りなどでおもうようにいかない。
ついで叔父の源行家が京で義仲を批判していると情報がはいり、京にもどると。叔父の行家は西国にのがれ、室山で平家の2万騎に、わずか5百騎で挑み、善戦するが敗退、河内へ落ち延びた

法住寺の合戦
義仲の京での狼藉(皇位継承への口出し、法皇の幽閉、兵士の横暴を許す、皇位を望み無理だとわかると関白を望む)などで京での評判もおちていた義仲はついに法皇から追討命令をうけてしまう。義仲は法皇を襲って幽閉し、閣僚官僚を罷免して京を掌握、平家と手を結んで頼朝を打とうとするが断られる。

宇治川の合戦
1184年、平家追討に発とうとしていた義仲に、頼朝の討伐軍として範頼、義経を大将軍とする源氏の6万騎がむかっているとの知らせが入る。
両軍は宇治川を挟んで対峙、このときさきがけ争いをした義経郡の梶原影季、佐々木高綱の挿話が入る。
先陣争いの勢いのまま義経郡は義仲軍を突破して後白河法皇の御所にかけつける。
法皇を奪われた義仲は死に場所を探している間に打ち取られ、家臣の今井兼平が自害して従った。愛人の女武者巴御前は東国に逃げたとされ、その後頼朝の命令で鎌倉に出頭したともいまれている。

六箇度の合戦
源氏の内紛の間に平家は勢力を回復、四国の屋島から福原の要害一の谷に本拠を移す。
ここに10万余騎が集結。京奪回も夢ではなく思われた。
四国の武士を中心に源氏に寝返ったものを平家が粉砕する一連の戦いを六箇度の合戦という。
ここで平家随一の猛将教経の活躍がかかれる。四国を暴れまわり、ついに一度敗れた緒方惟義をも打ち取る。
西国を抑えた。

1184年源氏も範頼、義経が平家討伐に向かう。
法皇に三種の神器をとりもどすようにいわれ、院宣をうけて範頼5万騎、義経1万騎で出陣。二面作戦で討伐に向かう。
義経は三草山の西麓に布陣していた平家軍に夜襲をかけて撃退する。連戦連勝だった平家が敗走した。

一の谷の合戦
平家総帥宗盛は、教経に命じて山の手をかため源氏軍に備える。
このとき義経は軍を二手にわけて、7千騎を西口に、自身は3千騎で一の谷の背後鵯越をめざす。
その日の夜義経軍を抜け出した、熊谷直実・直家親子と平山季重がさきがけ争いをおこない城へ向かい、合戦がはじまった。範頼軍も馬ももたない、武蔵野河原太郎・次郎兄弟が二人で敵陣に切りこんで討ち死にするなど戦闘の火ぶたがきられる。
梶原景時は息子景季を救出すため敵陣に引き返す「梶原の二度駆け」を行う。
夜明けに義経が有名な鵯越を実行、平家は戦意を失い屋島へ敗走した。
ここで平家一門の多くの武将たちが打ち取られたのを物語は語る。
美少年敦盛の最後もここでである。敦盛を打ち取った熊谷直実はその後出家した。

重衡生け捕り
京都では一の谷の平家の首が並べられ、生け捕りになった重衡は京を引き回された。
重衡は法皇の要請で三種の神器と交換するように手紙を書くが、ききいれられなかった。
身柄を関東に送られることになった重衡は法然上人との面会を希望。極楽浄土を願う。
関東で頼朝と面会したときも堂々とした態度で、手厚いもてなしをうけたという。
物語では平家一の色男、重衡と女性たちの逸話も語られる。

維盛の入水
病気で一の谷の合戦に参加しなかった維盛は京都に残してきた妻子がきになり、さらに重衡の運命をしると平家に再起の望みなしと判断し、従者だけをつれて紀伊(その後熊野)にわたり出家して小舟で漕ぎ出して念仏を唱えながら入水自殺する。

藤戸の合戦
1184年、頼朝は五階級特進で正四位下となる。
池禅尼子ども頼盛が鎌倉に招待される。
維盛の妻が出家したり、平家の軍が源氏の軍にあっという間に鎮圧されて「三日平氏」といわれるなどの事件が語られる。
9月3万騎で性語句に侵攻した範頼だが、資盛が小舟で布陣しているので責められない。
源氏の対象佐々木盛綱は漁師から馬が渡れる浅瀬をききだして(なんと他に知られないように漁師は殺した)一番乗りをして平家をけちらす。平家は屋島に退却
しかしその後範頼は進軍しなかった。

1185年義経が屋島を攻めようとする。
このとき梶原景時と戦法をめぐって対立。
義経は自分の部下だけで出航。わずか5艘で6時間で阿波(徳島県)に到着。屋島の平家が3000余騎と知ると一気に屋島を攻略。一度は逃げ出した平家だが、義経が小数とさとると教経の指揮で反撃。武蔵坊弁慶をはじめとする武将たちが義経を守ろうと奮闘し奥州出身の佐藤嗣信が射殺された。
那須与一の神業もこのとき。
結局平家は屋島奪回をできず海上にでていった。

源平合戦の地図があった。

壇ノ浦の合戦
平家群は長門(山口県)の引島に集結。
源氏は合流した範頼、義経が長門の追津に転進。
四国の水軍が源氏に加勢して水軍の不利は解消されていた。
ここでも梶原と義経が対立するが、周囲が修めている。
緒戦は兵士が有利だったが、阿波重能が裏切り源氏の勝利が確定、潮流の変化もあり、平家の敗戦が決定的になる。
安徳天皇と清盛の妻時子(二位どの)は入水自殺。徳子も海に飛び込むが助けられる。
武将たちが次々と最後を遂げる中、教経は執拗に義経を追いまわす。これが有名な「八艘飛び」
闘った武将たちは見事な最後を遂げたが平家の壮士宗盛は入水する勇気がなくためらっていると家臣に海につきおとされ、そこを源氏に囚われるという醜態をさらす。
三種の神器のうち、二つは見つかったが、宝剣はみつからなかった。

平家物語史跡ガイド、東北編


第三章 源平合戦のその後
人物相関図 源氏は頼朝中心に。義経との内部対立をかく。
後白河法皇と健礼門院徳子をかかれていた。

平家の一門は京で引き回され、宗盛親子は鎌倉に位相が決まる。
頼朝は三階級特進従二位となる。
たびたび義経ともめていた梶原景時が頼朝に讒言。
京での義経の評判に対し敵愾心もあってか、頼朝は義経を鎌倉出入り禁止とする。

宗盛は頼朝と無様な対面をしたあと、義経によって京都に戻され打ち首になり
幽閉されていた重衡も奈良の寺院の要請(焼き討ちの報復)で奈良にうつされ、立派な最後をとげる。

義経追討
1185年、頼朝は戦後処理をひと段落させると、義経の処分位取り掛かる。
まず暗殺をしようと、土佐坊昌俊に命じるが、義経に見抜かれる。情報をもたらしたのは静御前とされる。
次に頼朝は範頼に義経討伐を命じる。範頼は拒否した後ひきうけるが、疑われ処刑される。
次に執権北条時政が京にくると知った義経は都落ちを覚悟。
後白河法皇に九州武士団は義経につくように、院宣をだしてもらう。
しかし西国にいく途中暴風にあい、奈良の吉野に隠れようとするが僧兵にはばまれ、奥州にむかう。
京についた北条時政が義経討伐の院宣をだし、義経を追いつめる

平家の断絶
京では平家の残党狩りが行われ、懸賞金目当てに女子供まで犠牲になった。
維盛の息子、六代が難を逃れていたが、ついに見つかり処刑寸前に乳母の機転で文覚のとりなしで一命をとりとめる。
六代は16歳で出家したが、後白河法皇、頼朝、そして文覚が政変で沖に流されるととらえられ斬首された。
これで平家の嫡流はつきたとされる。

女院出家
最後に物語は健礼門院徳子の後日談でしめくくる。
29歳で仏門にはいった彼女は寂光院で平家の菩提を弔って過ごす
そこに後白河法皇がお忍びで訪れて、対面、自らの半生を六道になぞらえて術壊。
法皇も涙する。

平家史跡ガイド西国編


平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2011/11/10
  • メディア: 新書



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