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これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 [思考]

正しいとは何か?
正義の意味を探求するときの3つの理念。幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進。
この3つの理念はそれぞれ正義に対して異なる考え方を提示している。

我々は美徳を求めるが、それを法律によって押し付けることに我々は抵抗を感じる。
我々は経済的繁栄と自由を愛しながら、正義の独善的要素をすっかり払拭はできず。
正義に美徳も含まれるという根深い信念に支配されている。

正義とは何かを考えるとき、美徳とは何かを明確にすることを避けることはできない。
どんな人が道徳的なのか?そしてそれはなぜなのか?

公正な社会とはどういうものか?
財産や収入、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉がどう分配されるのか?
一人一人にふさわしいものとは何なのか?

我々は正義について判断するとき、すでに結論を出しているものだ。
そしてその理由を追及する。それによって結論を修正することもある。
この心の動き、行動の世界から理性の世界へ移り、そしてまた戻る動きのなかに道徳についての考察が存在する。
こうした考察は社会全体(対話者が必要)で取り組むべきものである。

この本は読者を道徳と政治をめぐる考察へみちびき、検証をうながす本である。

道徳的ジレンマの例
1 ブレーキの壊れた電車を運転している、前に5人の整備士がいる、退避線路には一人だ。あなたは退避線路にはいるべき?
2 1と同じ状況だが、あなたは線路の上の橋にいる、橋の上にとっても太った男がいて、突き落せば電車は止まり、作業員5人の命を救うことができる。どうすべき?
3 これは実話でアフガニスタンで作戦中の4人の兵士が二人のヤギ飼いにであった。彼らを解放すればタリバンに通報される恐れがあったが、武器をもたらない彼らを殺すことを躊躇した意見が多数をしめた(拘束しておくことはできなかった)。その後4人はタリバンに包囲され、ヤギ飼いを解放するのに賛成した一人の兵士をのぞいて全滅し、さらに救援にきたヘリが撃墜され合計16名が死亡した。

○功利主義。(最大幸福)
ベンサムの唱える功利主義の答えは簡単だ。快楽を最大にする結論が正しい。
反論する人は、自分の快楽を元にしているのだから、功利主義を批判することはできない。
電車の例なら一人を殺して5人が救えるなら、もちろん一人を殺す方が正しい。
自然権(人間が生まれながらにもっている権利)などはたわごとだ。
行動のもたらす結果だけが正しいか正しくないかの判断になるのだ。

これは個人の権利を尊重しない。よって徹底すれば品位や敬意といった、われわれが基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱いを認めることになる。
また幸福を計測するのに、好みを評価することはない。そして統一した尺度が必要になる。
費用便益分析という意思決定手段で利益が計算されて人々の反感をかった例。
フィリップ・モリスがタバコの販売によって国民が早死にすると、年金や社会保障費が減って政府としてのトータルの支出は減るという結論に対する反発などがあった。これには家族を失った損失は計上されていない。それがはいっていれば怒りはなかったのか?しかし、命の値段をつけた他の例でも批判はあった。功利主義者は命に値段をつけるのをためらうのは捨てるべき悪習だという。
道徳に関するあらゆる物事は失うものなく単一の尺度に換算できるという意見には、賛成も反対もあり決着はついていない。

ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの友人を父にもち、功利主義をの反論に立ち向かおうとした。
彼は他人に危害を及ぼさない限り、人間は何をしても自由だと主張した。
個人的な自由のは長い目でみてよい効用をもたらすというのだ。
ミルは服従を最善の生き方の敵とした。
ミルは否定しているが、これは功利主義を否定するものとみなされている。
また「質の高い快楽」が存在するとしているところも功利主義と離れていると指摘されている。
ベンサムはすべての快楽は平等として、シェークスピアをみるほうが、プロレスやアニメをみるより質の高い快楽だとはしなかった。
ミルは人間の高い能力に信頼をよせ、功利主義を卑しさから救おうとしたが、そのために効用に無関係な人間の尊厳や人格といった道徳的理念に訴えるしかなかったのである。


○リバタリアニズム(自由至上主義)
リバタリアンは、経済効率でなく、人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。
その中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利=他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることも行うことが許される権利、を有するというもの。
そのため近代国家の、パターナリズム(父親的温情主義)、道徳的法律、所得や富の再配分を拒否する。
バイクのヘルメット規制はいらず、買春を認め、富めるものが貧しいものを支えるのは、政府の強制ではなく富める者の自由意思で行われるべきとする。
フリードマンは「資本主義と自由」のなかで、社会保障や年金を否定、最低賃金も自主的な契約の妨げになると否定した。
ロバート・ノージックは国家は、暴力・盗み・詐欺から国民を守ることに権限を限定すべきと最小国家を説いた。
元手が公正に手に入れられたもの(盗んだり、奪ったり、強制した取引)でないかぎり、手に入れたものは正当で、国家でもそれを取り上げることはできないとする。元手が正しいことを証明するのは難しいが、理論的にそうだとしたら、手に入れたものはすべて私のものでいいとする。
自分は自分のものだとするなら、自分の労働の成果も自分のもの。成果に課税するということは国家が私の共同所有者だということになる。これは間違っているというのだ。
自己所有権という概念は、他人のために自分の権利を差し出すことが間違っていることを説明する。

この原理い従うなら、自分の腎臓を売るのも自由だ(たとえ相手が臓器移植を待つ患者でなく、単に腎臓を収集しているだけの人でも)、自殺も自由だし、自由意思による契約さえあれば、なんでも許される(合意の食人事件の例があげられていた)
電車の例なら、橋の上から男を落とすのは絶対に間違いだということになる。

○市場と論理
市場をリバタリアニズムの観点で論じたら、自由な取引はするのは自由の尊重だ。干渉は自由を阻害する。二人の人間が自由な市場で取引をすると、どちらも利益を得ることができて、全体の幸福は増すというのだ。
懐疑論者は、市場の選択は常に見た目ほど自由とは限らないと主張する。
アメリカの軍隊は現在志願兵でなりたっている。南北戦争のころ徴兵制が行われたことがあったが、このときは代わりの人間を雇って戦場に行かせることが認められていた。のちに徴兵免除費も採用されたが、命に値段をつける行為と非難されて廃止になった。身代わりは富める者が貧しいものを戦争にいかせる階級差別として非難され、今はない。しかし、現在の志願兵制度は公平なのか?

志願兵とは労働市場を通じて兵士を集めるということだ。リバタリアンは徴兵制を自由を損なうというだろうし、功利主義は、志願兵をやとったほうが、兵士になるものは待遇がよくなり(そうでないと人がこない)人々は望まない兵役を行うこともなく全体の幸福が増すというだろう。
しかし、現在のアメリカの志願兵の出身階級は低所得者から中所得者だ、市民全体で大卒が46%なのに兵士で大学に通ったものは6.5%。つまり選択肢が少ない人間が兵士になっており不公平だというのだ。ただしこれは階級のある社会での主張だ。完全に階級がない社会なら志願兵は公平なのか?
どのような条件があれば自由市場は完全に自由といえるか?この問いはイマヌエル・カントとジョン・ロールズをみtから戻る。
また、兵役は民主主義における市民権を表現し、深めるもので、放棄すれば、政治家は簡単に戦争をはじめられるようになるという主張もある。だれも陪審員を市場から調達しようとはしないだろう。
志願兵をもっと進めれば傭兵ということになるのに、アメリカがそこまで行きつかないのは、兵役が国民の責任であり、市民権の発現だと思っていることの現れだったかもしれないが、現在は非アメリカ国民からの部隊をもつまでになってきている。民間軍事企業を使うことも、その方向だ。
兵役は国民全員が負うべき市民の義務なのか、それとも他の仕事と同じように労働市場でバランスが保たれる困難な仕事なのか?この答をだすのには、義務とは何か、それはどうやって発生するかを考える必要がある。

金をもらっての妊娠はどうか?
契約によって自分の卵子と子宮を提供し、依頼相手の精子を使って妊娠出産した女性が、出産後赤ん坊を渡すのを拒否して裁判になった事例がある。
リバタリアンと功利主義は、契約の履行が正しいとするだろう。
そして反論は、完全に自由な選択ではなく、子どもを手放す痛みが事前にわかっていなかった、同意に瑕疵があるというものと、そもそも女性の生殖能力や赤ん坊の売買は、たとえ自発的であっても(金で売ったり買ったりするのは)間違っているというものだ。
人間は単なる物体とは違い、尊厳と敬意をもって扱われるべきだとう主張⇒カント
ものや社会的営みの正しい評価法は、営みの目的によって異なる⇒アリストテレス
現在では完全に借り腹での代理出産が可能になったため、問題はより複雑になり、アメリカでも代理出産を認めるかは州によって違う。

傭兵と代理母からわか正義をめぐる二つの問題
・自由市場で我々が下す選択は、どこまで自由なのか?
・市場では評価されなくても、金では買えない美徳や高級なものは存在するのか?


功利主義は普遍的人権をみとめない。幸福な町があって、でもその幸福は地下でみじめに暮らしている子どものお蔭だとしたら?あなたは子供を解放して、自分の幸福を手放せるか?功利主義では幸福の量がおおければ、みじめな子供の存在を認める。
リバタニアンのいう自己所有権をどこまでもみとめれば、落伍者を切り捨て、格差が拡大するのは認め、人間の尊厳を傷つける行為をみとめることになる。奴隷売買だって、奴隷になるのを納得した人がいればいいのだ。
ロックは無制限の自己所有権を認めないとしたが、その根拠は神のようなものを思わせる。

イマヌエル・カントは人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考え、それが人権のよりどころとした。
これは今日の普遍的人権のよりどころとなるものだ。
カントはアリストテレスのように美徳と正義を結びつけはしなかった。
自由と正義を結びつけた。
リバタニアンとの大きな違いは市場での選択のようなものは真の自由ではないとしたことだ。
理由は、そこで満たされる欲望は自分で選んだものでないからだ。
カントは功利主義も批判する。人々に幸福をもたらすものが道徳とはかぎらない。ある時点での利害・必要性・欲望・選好といった経済的理由は変わりやすく、普遍的道徳原理にならない。
人間が尊厳に値する存在なのは、自分を所有しているからでなく、合理的に推論できる理性的な存在だからとする。
ただし、常に理性的に選択できるとはかぎらない、でもその能力はだれにでもあると言っている。
ベンサムが間違っているのは、快楽と苦痛を人間の主権者としたことだ、人間は理性を主権者とすることができ、そうなっているとき動物と一線を画す独自の存在になれるとした。

カントの自由の定義は何にも妨げられず、したいことをすることではない。
快楽を求め苦痛を避けようと行動しているときには人間は自由ではない。行動のすべてが外部からから与えられたものを目的としているからだ。
自由な行動とは、自律的に行動すること。
カントは自律的を説明するために他律という言葉をつくった。自由落下する物体のように、他の法則に支配されているのが他律だ。目的を達成するための最善の手段を選ぶのは他律である。自律とは自分が定めた法則にしたがって行動自体を究極の目的として行動することだ。
カントにとって人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うこと。

カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす要因できまる。
そうすることが正しいという理由で正しい行動をとる。それだけが道徳的な価値をもつとする。
正直な取引をするのが正しいからそうするのは道徳的価値がある。
しかし、正直な取引をしていれば利益が得られるからそうするのでは、道徳的価値はない。
正しい動機を義務の動機、そうでない動機を傾向性の動機といっている。
もっとも両者の区別は容易ではなく、共存する可能性も指摘している。
カントは善行をなすことで得られる喜びが動機でなされる善行は道徳的でなく、賞賛には値するが尊敬には値しないという。ただ義務のため(そうするのが正しいから)という理由で行動するときだけ、行動に道徳的価値が生じるという。(もちろん二つの動機は共存することがある)
カントは義務の動機を正しく理解するためには、それを同情や思いやりから切り離して考えるべきと主張している。

カントは「道徳形而上学言論」で道徳の最高原理を純粋実践理性とした。
仮言命法は、XがほしいならYをせよいう条件を伴うものだ。
定言命法は、無条件に、他に考慮すべき目的や依存する目的をいっさい持たずに何らかの行動を命じること。
定言命法だけが道徳の命法たる資格をもつとカントはいう。
定言命法のその1 普遍的法則、自分がとろうとしている行動が、他のすべての人の利益や状況よりも、自分の個人的な利益と状況を優遇するべきものか点検する。
定言命法その2 人格を究極目的として扱う、自尊心と他者を尊重する気持ちはまったく同じ原理、われわれが理性的な存在として人間性をもつものとして、人格に負っている義務であり、相手がだれかはまったく関係ない。相手が人間なら、だれであろうと尊敬に値する存在であり、人権はまもられるべきとする。これが今日の普遍的人権のよりどころである。

カントの主張は、
道徳的に行動することは義務から行動することである。
自分が定めた法則にしたがって自律的に行動することである。
ということになる。

道徳は経験からは生まれない。科学は経験の支配する感性界でしか機能しないので、道徳的な問いに答えることはできない。証明することなしに、経験から離れたところに道徳と自由の存在があるとしなければ、道徳的な生活は理解できない。

カントは買春と行きずりのセックスに反対した。夫婦間のセックスだけが人間性を貶めることなく、自分のすべてをささげあえる行為になりうる(すべてそうなるとはいっていない)とし、他はすべて他者の人間性を単なる手段として扱うものとした。
また、嘘は不道徳の最たるものとした。罪のないウソ(相手を傷つけまいとしてつく)も否定した。ただ誤解を招く表現は認めている。

カントには政治論のこれといった著作はのこしていないが、功利主義をさけ、社会契約に基づく正義論を支持していたようだ。
カントのいう社会契約はロックらの主張(合法的な政府は人々がどこかの時点で自分たちの生活を律する原理として定めた社会契約から生じる)とは違い、合法的な政府は原始契約に基づくものでなければならないが、事実として存在する必要はなく、ありえない仮想上のものだとした。
過去にさかのぼって国家に社会契約が結ばれた証拠をさがすのが難しいのと、道徳法則を支えるものは過去のある人々が同意した事実ではないからだ。
そして「理性の概念」が立法者と国民に同意したとみなす義務を発生させるという。
この仮想上の行為が、あらゆる公法の正当性の試金石とした。


ほとんどのアメリカ人は社会契約を結んでいないのに、法に従う。政府は国民の同意によって存在しているといわれる。
ジョン・ロックは、それを暗黙の同意を与えたからだといった。政府の恩恵を受けている人がハイウェイをはしることが暗黙の同意だと。しかし、暗黙の同意は同意の内容が見えにくい。

カントは仮説上の同意という論理を使って、国民全体が同意しうるものなら、その法は公正だとした。そのような同意が実際の社会契約の代わりになり、道徳的仕事を果たせるのか?

ジョン・ロールズは、正義とはなにかを考えるためには、平等の初期状況において、人々がどのような原理に同意するか問う必要があるとした。
人々が話し合って共同体の生活を律する原理を選ぼうとしても意見は一致しない。妥協案でおちついたとしても、交渉力の強いものの思惑が働いている可能性が強く、公正な取り決めとはいえない。
ここで全員に「無知のベール」をかぶってもらう。自分が属する階級や性別、人種も民族も宗教もわからない。いっさいの情報がない状態で洗濯する原理は公正になるはずだ。
これが、ロールズに考える社会契約。平等の原初状態における仮説的な同意である。

この状態は、自分が少数派や社会的弱者だったら困るので、功利主義やリバタニズム、自由競争は選ばないだろう。
ロールズはここから二種類の正義の原理が導き出されるとした。
第1原理は、言論や宗教の自由をすべての人に平等に与える
第2原理は、所得と富の平等な配分を求めるものの、社会で最も不遇な立場にある人々の利益になるような、社会的・経済的不平等のみを認める。
この原理については、意義を唱える学者がいる。

一度も実在したことのない契約から正義に原理は導き出されるのか?
たいていの契約には圧力があり、公平な条件で契約が結ばれることはまずない。
契約が道徳的圧力を有するのは、自律と互恵性という二つの理想が実現されている場合だけだ。
当事者が自律的に無図んだ契約には拘束力のある義務が生じる。
契約は当事者双方が利益を得るための互恵性を前提としている、契約を履行する義務は相手から得た利益に報いる義務から生じる。
現実では、この理想はなかなかなく、自発的でも不公平な契約はあり、契約でなくても互恵性の観点から発生する義務もある。

ロールズがいうような、原理の2では、格差は認め、最貧層に利するようにするということだから、高給取りの人が貧しい人を助けるという意味になるが、そうしない場合はなりたたない。ロールズは自分の気質がすべて隠された状態なら、人々は原理2を選ぶといっている。

無知のベールを支えるのは、所得と機会は恣意的な要素に基づいて配分されるべきではないという考え方だ。
封建社会と違って自由市場では一見機会は均等であるようにみえるが、実際は生まれた環境でスタートラインは違う。
では、スタートラインをそろえればいいのか?ロールズはそれでも正義とはいえないという。
なぜなら、生来の才能で所得と富が配分されるかららである。

では、完全無欠な平等は足の速いものに鉛の靴をはかせることか?
ロールズは、そうではなく、才能あるものが市場から得た利益は、共同体全体のものと理解してもらうという。
これがロールズの格差原理である。

反論として、最も不遇な人々を助けるという理由でしか才能から利益を得られないなら、才能を伸ばす努力をしないのではないかというもの。ロールズは才能ある人に所得格差を認めるのは、不利な立場の人々の状況を改善するためにだけだと回答する。

反論2、才能を開花させるための努力の大家が認められるべき。
ロールズは努力も恵まれた育ちの産物とする。
確かに努力が対価になるなら、筋骨隆々の人が煉瓦を運ぶより、体の弱い人が煉瓦を運ぶほうが対価が高くなる。

才能が道徳的に恣意的なら、道徳的功績に報いることは分配の正義ではない。
ロールズも、この考えが一般的でないことをみとめている。しかし、公正としての正義は違うのだと。

ロールズはルールを守って勤勉に働いている人たちに要求する権利がないといっているのではない。
道徳的功績と、正当な期待を持つ権利は区別すべきという。
権利はゲームのルールが決まった段階ではっせいする。ただしルールを設定する方法は教えてくれない。
分配の正義は、美徳や道徳的功績に報いることではなく、ルールが決まった段階で発生する正当な期待に応えることだという。税法上、恵まれない人々を助けるために所得の一部をさしだすことがきまっているなら、それは自分が道徳的に得る資格のあるものを奪う行為だとはいえない。

ロールズが道徳的功績を分配の正義の基準にしない理由は、
才能をもっていることは、すべて自分の手柄ではない。
また才能の基準が時代で違う
ということである。

フリードマンは「選択の自由」で裕福な家庭で育ちエリート校に通った自らの立場を不公平と認めた。
しかし、ロールズと違い、それを受け入れ、そこから利益を得るべきと主張した。

ロールズは、そうした事実を組織がどのように扱うかによって公正か公正でないか決まるといった。
お互いの運命を分かち合い、それが全体の利益になるときのみ、自然の采配や社会環境のめぐりあわせを利用することに同意することこそ、これらの事実の正しい扱い方だという。

アメリカの政治哲学がまだ生み出していない、より平等な社会を実現するために説得力ある主張である。


アファーマティブ・アクションとは、積極的差別是正措置のことで、大学の出願者でマイノリティを優遇すること。
白人に成績で劣っていても、この制度のおかげで合格になるマイノリティの学生がいることになる。
大学がこの制度を導入する理由は、「法治社会を実現するには、市民が法の判断を進んで受け入れるような社会をつくらなければならず、あらゆるグループの成員が司法に参加しなければ、このプロセスはさらに困難になる」というものだ。
はたしてこれは不公正なのか?

アファーマティブ・アクションの支持者が掲げる理由は3つ。

テストの差の補正・・・社会的・文化的・教育的背景を考慮する

過去の過ちを補正する・・・彼らを不利な状況においやってきた差別の歴史を埋め合わせる。しかし実際にしいたげられた人たちが補償をするわけでなく、補償する側も過去の過ちに責任を負ている人々でもないことが多いという批判がある。アファーマティブ・アクションの恩恵をうけるのは中流階級のマイノリティであり、白人でも彼らより貧しい家庭の出身者は多い。補償をするなら人種ではなく階級にすべきという意見もある。前の世代が犯した過ちを償う道徳的責任が、はたして現代の我々にあるのか?

多様性を促進する・・・入学許可を学生への見返りでなく、社会的価値のある目的を達成するための手段とみなす。これには実際はマイノリティの学生の自尊心を傷つけ、人種意識が高揚するとう説がある。本来の目的を達成するどころか、害の方が多いというのだ。また、原理的にも、学業でまさっても白人だからという理由で不合格になる学生の権利が侵害されているという主張がある。法哲学者のドゥウォーキンはアファーマティブ・アクションはだれの権利も侵害していないという。入学許可は学生の能力や徳に報いるための名誉ではなく、どの学生にも入学を認められるべき道徳的資格はない。入学許可が正当化されるのは、それが大学が目指す社会的目的に資するからであるとする。これはロールズの見解と一致する。

では、かつて人種によって入学を許可していない大学があったが、これは大学の使命にそっていれば正しいのだろうか?ドゥウォーキンはそうはいわない、この排他主義は「ある人種は遺伝的に他の人種より価値があるという卑劣な考え」によるもので、アファーマティブ・アクションはそのような偏見がないからだ。大学で人種や民族の多様性を確保することが有用だといっているだけで、不合格になった白人が劣っているというわけではない。

分配の正義のよりどころを道徳的功績に求めないという考え方は、道徳的には魅力的だが、人々を不安にさせる。
この考えは、金持ちが金持ちなのは、貧乏人よりそれに値するからだという考えを覆し、成功はたまたま才能と恵まれた環境によるものとするから魅力的である。
ただ、職やチャンスを得るのはそれに値する人だけという考えは根深く『ルールを守る働き者」が成功に値するというアメリカンドリームを体現している人々は、成功を自分のとくとみなす。この考えは、遅れをとる人々に責任を感じなくなり、度がすぎれば社会の連帯を妨げかねない。正義に関する議論を功績をめぐる論争から切り離すことは政治的にも哲学的にも不可能なのかもしれない。
その理由は、正義は名誉とかかわっていることが多いこと。名誉や見返りにふさわしい資質はなにかが議論されること。
また組織がみずからの使命を定義して、初めて評価すべき能力が決まるといっても、ある程度はその組織が奨励している善に制約される。巨大な資金を得られるからと入学許可を競売にするのは、大学の存在意義はなくなってしまうだろう。

正義をめぐる論争を、名誉や徳、善の意味を巡る議論と結びつけるのは賛同を得る見込みのない行為のようにみえる。
そのため正義と権利のよりどころを、こうした論争から距離をおいた場所に求めたいと思うのも無理はない。
カントとロールズの哲学は、善い人生の定義は人によって違うという現実を前に、中立的な立場から正義と権利のよりどころを見つけようとする大胆な試みである。


アリストテレスの正義論の二つの概念。
1正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因(テロス)=目的、最終目標、本質)を知らなければならない。
2正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考えるーあるいは論じるーとは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。

アリストテレスは正義が、名誉・徳・道徳的真価をめぐる議論から切り離せないとする。
あるものが分配されるとき、そのものの目的を一番うまく実現できる人が持つべきと考える=目的論的思考。
自然科学についてもアリストテレスはこの方法を使い、石が落ちるのは還るべき地面に近づくためと考えた。今日ではこうした考え方は捨てられ、自然は物理法則に支配されていると考えられるようになったが、哲学や政治ではいまだに使われている。

アファーマティブ・アクションなら大学の目的はなにか?という問いから始まることになる。
大学が称え、報いを与えるのにふさわしいのは、どんな美徳や優秀さだろうか?
こうした議論が展開されるのはアリストテレスの正しさの裏付けだ。正義と権利をめぐる議論は、社会制度の目的をめぐる議論であり、その制度が称え、報いを与えるべき美徳をめぐって対立するさまざまな概念の反映であることが多い。

アリストテレスは社会制度の目的を論証するのは可能だと考えている。
今日のわれわれは政治を本質的目的をもつものと考えず、市民が指示できるさまざまな目的に開かれているものと考える。政治的コミュニティに、目的を与えることは市民の決める権利を横取りすることになると考える。
アリストテレスは政治の目的を、目的によらず中立的な権利の枠組みを構築することではなく、善き市民を育成し、善き人格を要請することとした。人々が共通善について熟考し、実践的判断力をみにつけ、自治い参加し、コミュニティ全体の運命に関心を持てるようにすることが政治の目的とした。
また、目的が限られる共同体は真の共同体ではないとした。防衛協定や自由貿易協定などのことである。
よって、地位と名誉を分配されるにふさわしい人は、共通善について熟考するのに長けた人たちであるとした。
市民として卓越性を発揮した人、ペリクレス(あるいはエイブラハム・リンカーン)のような人たちが公的に高く評価されることで、すぐれた都市の教育的役割にも資するとした。

今日の我々は政治を善良な生活のためにあるとは考えない。
アリストテレスは、政治抜きには申し分なく善と徳のある生き方ができないと考えた。
理由は人間を、政治的共同体をつくる生き物であり、その傾向はミツバチなど群れをつくる他の動物より大きいとした。人間は言語を通じて善を識別し熟考するとした。それを発揮できるのは政治的共同だけで、孤立しているときはできないとした。
アリストテレスは幸福を心の状態でなく人間のありかたであり「美徳に一致する魂の活動」とした。そして美徳を身に付けるには実践すること、つまり言語能力を使って政治に参加することとした。それを習慣化することとした。
アリストテレスにとっての道徳的行動とは、状況によってどの規則を適用するか考えて実行することである。つまり美徳にはつねに判断が必要だ。判断はアリストテレスが「実践的な知恵」と呼ぶ一種の知識である。これがある人は自分自身だけでなく、市民や人類全体にとっての善とは何かを熟考できるとした。ただし哲学的思索ではなく、この場での行動に関するもので、それぞれの状況で実現できる最高の善を追及するものだ。

市民として生活することは、他の生き方では眠ったままの、討議する力と実践的な知恵を磨くことができる唯一の方法であり、善良な生活に欠かせないものとする。

アリストテレスは奴隷制擁護者で女性の市民権もみとめなかった。一人一人に本性を活かせる適正にあった社会的役割を与えるという考えのもとである。
これは現代の政治理論とは相性が悪い。だが、彼の目的論思考が誤っていることの証明にはならない。
彼は奴隷制が正当であるためには、市民が共通善を討議する時間を捻出するためい家事労働をするためと、生まれながらに理性をもたず、他人のものになれる人がいるという条件が必要とした。
ただし、自分の意見に腑に落ちないものは感じていたようだ、多くの奴隷は戦争の捕虜で元は市民だったから。
奴隷制についてはリベラル派は強制を伴うので不正とするが、目的と適正で判断するなら、その人の本性にあっていなければ不正となる(たとえ公平な条件で合意したとしても)。道徳的基準はより厳格だ。

現代で、障害のあるゴルフ選手がカートを使用することが適正かを判断する裁判では、ゴルフの本質の解釈が問われた。正義と権利についての論争は、必然的に社会制度の目的、それによってわりあてられる善、賞賛され報いられる美徳をめぐる論争になることが多い。われわれは法律をそうした問題に中立にしようとするが、善良な生活の本質を議論しないとこには、何が正義かを決めるのは不可能かもしれない。



互いに負うものは何か?-忠誠のジレンマ
歴史的不正に対する公的謝罪をめぐっての議論は多くある。
公的謝罪が過去の傷をふさぎ、道徳的・政治的和解の基礎作りになることもあれば、かえって敵の敵意を呼び覚まし、歴史的な憎しみを増大させることがある。状況によってちがうのだ。

ここでは、状況の偶発性に左右されない、原理に基づく主張をとりあげる。
現存する世代は前の世代が犯した不正について謝罪する立場にないし、現実問題として謝罪できないとする主張である。自分が生まれる前に行われたことについて、どう謝れというのだろうか?

この主張の根拠は道徳的個人主義と呼べるものだ。私の責任は私が引き受けたものに限られるという考え方である。
われわれは自由で独立した道徳的行為者であり、伝統でも習慣でもなく、一人一人の自由な選択が、われわれを拘束する唯一の道徳的責務の源とする。

現代の政治のみならず、現代の正義論でも「同意と自由な選択」は重要な位置をしめている。
ジョン・ロックは正当な統治は自由で独立した存在であるわれわれの同意がないと行えないとした。
カントは自律(自分が与えた法で自分が統治されること)により選択する自己を考えた。
ロールズはカントの自律的自己の概念を取り入れ、真の同意による社会を作るのは不可能であり、代わりに無知のベールでつつまれたらどんな原理に同意するか問うことだとした
カントもロールズも道徳的行為者を、独自のもくてきゃ愛着から独立した存在と考える。個々のアイデンティティを考慮しない。
そうであるならば、歴史的不正の賠償の責務は発生しない。
世代を超えた連帯責任の問題だけでなく、人間の権利を定義する正義の原理は特定の道徳的あるいは宗教的概念にもとずくべきでなく、善良な生活について対立する様々な観念に対して中立であるべきという発想がうまれる。
カントやロールズは善良な生活に関する特定の考え方に基づく正義の理論を否定する。功利的(ベンサム)であれ、美徳を求めるもの(アリストテレス)であれである。それらは、目的と目標を自分で選べる自由で独立した自己として人間を尊重しない。国民が自由に価値観を選べる権利の枠組みをもつ中立的国家が必要だとする。もちろん自由に目的を選ぶのも強力な道徳的観念だが、どう生きるべきか教えてくれず、他人の同じ権利を尊重することを求めるだけだ。好ましい生き方自体は断定しない。二人は善についての考え方から正しさを導き出す正義論には意義を唱える。正しさは善に優先するというのだ。

正しさを善より優先すべきかというのは、究極的には人間の自由の意味を問う論争である。
アリストテレスは正義を人間とその本性にふさわしい前途の一致の問題とみた。
われわれは正義を一致ではなく選択の問題としてみる傾向がある。われわれは道徳的行為者として目的ではなく選択能力によって定義される。
アメリカの政治論争の顕著な特徴の一つは、中立的国家と自由に選択できる自己という理想が政治思想に広くみられること。
アメリカの社会保障を擁護する人々の建前は、コミュニティの責務ではなく、困窮している人が自由な選択ができないから、物質的条件を整えるという意味であった。政府は自由な選択をするための物質的枠組みを整えるというのだ。
リバタニアンは中立的国家は賛同するが社会保障制度は否定する、社会保障制度のもとでは個人がみずからの目的を選べないで、一部の人の利益のためにほかの人々が抑制されるというのだ。

著者は、この自由観には欠陥があるという、公平な条件のもとでの選択の自由でさえ、正しい社会に適した基盤ではない。中立的な正義の原理をみつけようとする試みは方向をあやまっていると思えると。

自ら選ばなかった道徳的束縛にとらわれないなら、我々が一般に認め重んじている一連の道徳的・政治的責任がわからなくなってしまう。われわれのアイデンティティを形作るコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求を受け入れる存在としなければ、一般的な道徳的側面をうけいれられない。
かといって、コミュニティの要求ならば、判断せずに従うわけではない。
アラスデア・マッキンタイアは人間を「物語る存在」ととらえた。私はどの物語の中に自分の役をみつけられるかという問いに答えることで、どう生きるかに答えられるという。
物語には目的論と予測不可能が共存している。
道徳的熟考とは、みずからの意志を実現することではなく、みずからの人生の物語を解釈することだ。
単なる個人としては善の追及も美徳の実行もできないが、登場する物語をうけいれるときだけ、自分の物語を理解できる。物語の成員としての立場と帰属による。
これは、現代の個人主義とは相いれない。

リベラル派の責務の生じ方は二つ
・自然発生的なもの・・・普遍的で合意を必要としない
・契約によるもの・・・個別的。合意を必要とする。
この考え方では、厳密には国民一般には政治的責務はない。平均的国民は同法に対して不正を行わないという普遍的・自然発生的義務以上の責務を負わない。
物語的な考え方でとらえると、これは同胞として我々が負う特別な責任が説明されていないと考える。忠誠と責任もとらえられていない。それが道徳的力をもつ一因は、自分自身をある家族や国家、民族の一員、歴史の担い手、共和国の国民としての独自の人格ととらえることにある。よって物語的には責務には3つめがある。
・連帯の責務・・・個別的。合意を必要としない。

連帯と帰属の責務をあげて、読者に道徳的力が契約論の用語で説明できるか考えてほしいといっていた。
・家族の責務
・コミュニティの責務
・愛国心
・移民を制御する
・アメリカ製品を買う

連帯は同族を優遇する偏見だろうか?
一部は仲間に対するものだが、それ以外の部分はコミュニティが歴史上の道義的責任を負う相手かもしれない。過去の過ちへの謝罪がそれである。
また自国の国民や政府を批判する特別な理由になることがある。ベトナム戦争に反対するとき、不正な浅層だというのは普遍的にだれでも持つ理由だが、アメリカ国民として恥ずかしいといえるのはアメリカ国民だけである。
誇りと恥は、共有するアイデンティティを前提とした道徳的感情である。
帰属には責任が伴う。自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りをもつことはできない。

忠誠はときに普遍的道徳原理に勝ることがある。
南北戦争のとき南軍の将軍だったリーは奴隷制にも南部の脱退にも反対だったが、故郷のために南軍の司令官になった。自分の生きる状況を理解し、熟考の末受け入れたのである、人格者であるとはみずからの、ときにはお互いの対立する重荷を認識して生きるということだ。

我々がもつ連帯的要求は、われわれの道徳的・政治的体験にみられる特色だ。そうした要求なしには生きることも、人生の意味を理解することも難しい。道徳的個人主義の論法でそれらの要求を説明することも難しい。そうした要求は物語る存在、位置ある自己としてのわれわれの本性を反映している。

正義を道徳的絆に縛られないなら、中立な正しさの枠組みが必要だが、実際には道徳的・宗教的問題をとりあげずに、問題を議論することは不可能だ。達成不可能な中立性を装いながら公的問題を決めるのは反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。本質的道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。原理主義者はリベラル派が恐れれて立ち入らない場所にずかずか入り込んでくるので、偏狭で不寛容な道徳主義を招くことにもなる。

アリストテレス的な考え方に立ち戻り、道徳行為の物語的な考え方の方が説得力をもつことを認めるべきではないか。

正義をめぐる論争にによって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なくまきこまれるのだとしたら、その議論をどう進めていくかが問われる。
単なる哲学上の問いではなく、政治的言説を再活性化し、われわれの市民生活を一新しようとするあらゆる試みの中心にある問いである。



正義と共通善
ジョン・F・ケネディは宗教を私事として、政治的影響を排除するとした。
バラク・オバマは、道徳的・宗教的信念が政治と法律において何の役割も果たさないとするのは間違いだったと述べた。
1960年代と70年代にもっとも発言力を得た公共鉄がは、政府は道徳・宗教問題について中立で、個人が自由に自分なりの善良な生活の構想を選べなければならないというものだ。
共和党は中立を経済政策に利用し、民主党は社会的・文化的問題に応用した。
ロールズの正義論はリベラル派の中立の構想を哲学的に擁護した。
1980年代にはコミュニティと連帯の考え方を支持する人々が、自由な選択と負荷なき自己という観念に疑問をなげかけた。
ロールズは宗教的・哲学的・道徳的信念、永続的な愛着や忠誠から自分を切り離せないとしても、市民としてのアイデンティティとは関係がないと主張した。
理性ある多元主義という事実を尊重するために市民としてのアイデンティティを道徳的・宗教的深淵から切り離すべきだとした。
よって、道徳的・宗教的正義を政府が支持しないだけでなく、個人が公共の場に持ち込むことも禁止することになる。
キング牧師を例外として、民主党は政治的言説から、道徳的・宗教的主張を葬り去った。
道徳的・宗教的主張はキリスト教右派にまかされることになる。かれらは共和党レーガン政権で目立つよう 
リベラルな中立性を超えた道徳的・精神的要素が政治的言語に盛り込まれ、進歩主義者は、より度量が大きく信仰に好意的な形の公共的理性を持つべきだと主張した。

正義と権利の議論を善良な生活のギロンから切り離すのは、
・本質的な道徳問題を解決せずに、正義と権利の問題に答えをだすのは、つねに可能とは限らない。
・可能な時でも望ましくはないことがある
という理由で間違っている。

妊娠中絶とES細胞をあげ、根底にある道徳的・宗教的議論における立場を明確にしなければ解決できない例としていた。
同性婚も。
そして目的とそれが称える美徳について考えることなしに、判断はできないとしていた。

正義に対する3つの考え方

・功利主義
 正義は最大多数の最大幸福を意味するというもの。
 欠点は正義と権利を原理ではなく計算の対象としていること。あらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにらなして個々の質の違いを考慮しないこと。

・正義は選択の自由の尊重を意味する
 功利主義の最初の問題を解決するが、尊重に値する権利がどれかは決めない。

・正義は美徳を涵養することと、共通善について判断することが含まれる。
 筆者の主張はこれ。公正な社会を達成するには、善良な生活の意味を我々がともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

所得・権力・機会などの配分の仕方をそれ一つで正当化できるような原理、あるいは手続きを探したくなるが、正義にはどうしても判断が関わってくる。正義にはものごとや美徳、誇りや承認について対立するさまざまな概念と密接に関係している。正義はものごとを分配する正しい方法にかかわるだけでなく、ものごとを評価する正しい方法にもかかわる。

公正な社会が善良な生活についてともい判断することで成り立つとすれば、われわれをこの方向に向かわせるのはどんな種類の政治的言説か?
著者はロバート・F・ケネディの主張が有望であったとする。
彼は不正をただすために、独りよがりな生き方に苦言を呈し、アメリカ人の国に対する誇りを呼び起こすことで、同時にコミュニティ意識にも訴えた。
残念ながら暗殺されたが。

オバマも、道徳や精神性を希求する政治をうちだしたが、金融危機のためうまくいくか予断は許さない。

共通善に基づく新たな政治とはどんなものか?考えられるテーマ
・市民権・犠牲・奉仕
 公正な社会には強いコミュニティが求められる。全体への配慮・共通善への貢献を市民のうちに育てる方法をみつけないといけない。公教育や軍隊はかつてその場だった。
 オバマ大統領は、ブッシュ氏がアメリカ国民に奉仕を求めず、買い物に行くように奨励したと批判した。

・市場の道徳的限界
 重要な社会的慣習ー兵役、出産、教育と学習、犯罪者への懲罰、新しい国民の受け入れなどを市場に持ち込むと、その慣行を定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。
 どれを市場の侵入から守るべきか問わなくてはいけない。
 それには善の価値を判断する正しい方法について、対立するさまざまな考え方を公に論じることが必要だ。
 市場は生産的活動を調整する有用な道具だが、社会制度を律する基準を市場によって変えられることを望まないなら、われわれは市場の道徳的限界を公に論じる必要がある。

・不平等・連帯・市民道徳
 貧富の差は1930年代以来最大。それなのに不平等は大きくとりあげられていない。
 効用の面から富裕層への課税することを主張するものがいるが、もっと重要なのは、あまりに貧富の差が大きいと連帯が損なわれることだ。その結果、金持ちは民間サービスを利用するので公共のサービスが財政的に苦しくなることと、公共の場に多様な人々が集わなくなってしまうこと。そうして不平等は市民道徳をむしばむ。リベラル派はここを見落としている。富裕層からの税収を公共サービスに投じて、富裕層も利用したくなるものにするなどの方法が考えられる。
 不平等の公民的悪影響とそれを払しょくする方法に焦点をあてると、所得の配分からは見つけられない政治的牽引力が見つかるかもしれない。また、分配の正義と共通善の関連性に光をあてる一助になるかもしれない。

・道徳に関与する政治
 われわれは、ここ数十年、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重することは、それを無視し、可能な限りかかわらず公共の生を営むことだと思ってきた。しかし、そこからは偽りの敬意が生まれかねない。道徳不一致に対する公的な関与が活発になれば、お互いの尊敬の基盤は強まるはずだ。他者の道徳的・宗教的見解を嫌いになる可能性もあるが、しかしやってみなければわからない。
 道徳に関与する政治は、回避する政治より希望に満ちた理想であり、公正な社会の実現をより確実にする基盤でもある。



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