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ジヴェルニーの食卓 [小説]

印象派の画家たちの周辺の人々が主人公なお話。
画家ではなく、家政婦だったり、画材屋の娘だったり、友人だったり家族だったり。
そういえばみんな女性だった。
大きな才能にひかれていく人たちを通して画家の絵の魅力も味わえます。
読んでから絵をみると、楽しいかも。

印象派は、戸外で製作するとか、あたらしい手法で絵をかく、それまでとりあげられなかった被写体を書くなど、それまでの絵画の常識にとらわれない表現をはじめた人たちで、当時はかなり叩かれたらしい。
しかし、次第に認められ画家たちも晩年は裕福に暮らしていいたらしい。

〇うつくしい墓
南仏のニースに暮らす絵の好きな家政婦。
絵画の収集をしていたマダムにやとわれていたが、マダムがマティスにマグノリアの花を送ったときお使いをしてから、マティスの元で家政婦として働くことになる。
マティスはこのとき80歳を超えていて、車いす生活だったがステンドグラスの製作を続けていた。
マンションは、マティスの美意識がいきとどいていて、主人公はそれを崩さないように掃除するように求められる。
なんか水差しの水の位置まで意味があるそうな。
すっかりマティスの製作というか生活にみせられ、ピカソがマティスを訪問したときにはいたく感動し、夢中になっていた。
やがて、世話になったマダムが危篤状態になり、マダムのところへ帰る。マダムは亡くなるが遺言で収集した絵画の行き先について細かく指定しており、その責任者となて弁護士と働いた。彼女には遺産はまったくなかったが、マダムの親戚を名乗る人たちからは嫌がらせをうけた。
主人公がそうしている間にマティスもなくなり、戻る場所はなくなってしまう。
マダムの仕事がすべて終わると、主人公はマグノリアの花をもってピカソを訪問する。ピカソは親友マティスの訃報にもいっさい反応していなかったのだ。
主人公はピカソはマティスの死をうけいれていないのだ(受け入れられない)でいるのだと悟る。
そして自身はマティスのデザインしたヴァンスの礼拝堂で修道女になった。まだ21歳だったので周りはとめたが、そうとしかおもえなかったのだ。先生のお墓はここだとそう思えたのだ。
物語は、主人公が高齢になったころ、ラ・フィガロの取材をうけて、自身がマティスのアトリエで過ごしたひと夏について語る手法をとっている。
明るく美しいニースの風景とマティスの作風がかさなって楽しい。


〇エトワール
エドガー・ドガのアトリエに残されていた作品が展覧会で披露されることになった。印象派の画家を早くから支援し、経営難をのりきったポール・デュラン=リュエルの画廊である。そこにアメリカ人女流画家メアリー・カサットがよばれてくる。
彼女が見せられたのは14歳のバレリーナの像。あまりに生々しく発表当時は叩かれ、買い手もつかなかった。
カサットはこの像を製作していたころのドガのアトリエに出入りしており、モデルの少女ともあっている。ドガは貧しい踊り子たちの絵を何枚も描いていて彼女もその一人だった。少女たちがオペラ座の舞台にたちエトワールになろうとするのは、金持ちのパトロンをみつけるためだ。家が貧しい彼女だちにはほかの方法がない。
ドガのモデルをしていた少女もそんな一人だったが、モデルをつとめるうちにドガに想いをよせ、なんでもするからアトリエに来させてくれといったが、ドガは「エトワールになれ、変なパトロンになびかなくていいように、像がうれたら代金はやる」と拒絶した。
結局像はうれず、少女もエトワールになることはなかった。
リュエルはそのときの約束があるので、像が売れたら代金を少女に払いたいと考え、事情をしっていそうなカサットをよんだのである。
しかし、カサットも少女のゆくえについてはしらなかった。


〇タンギー爺さん
画家セザンヌにあてたタンギー爺さんの娘さんからの手紙形式でかたられる。セザンヌの方の返事はのっていないので、そこは想像で補うらしい。
タンギー爺さんは画材屋をやっていたが、貧乏な画家たちがお金がないので、絵の具の代金に彼らの絵をもらっていた。これがコレクションみたいになっていたわけだ。
セザンヌもそうした画家のひとりだったが、タンギー爺さんは彼の才能をみとめ絵を大切にしていた(歪んだリンゴとか)
手紙は最初、故郷に帰ったスザンヌに絵の具の代金を送ってくれと催促するものだった。セザンヌの実家は銀行家で裕福だったらしい。結局セザンヌの父親はなくなり遺産を相続し、ツケもすべて小切手で払ってくれたらしい。
その後、セザンヌがなかなかパリに戻れないでいるうちに、タンギー爺さんはなくなり、妻と娘が残された。二人は父親のコレクションの絵画を競売にかけたが、ほとんどお金にならず、店をたたんで狭いアパートに引っ越した。
若い画家たちがタンギー爺さんを頼ってくるが、今は何もしてあげられないと手紙は結んでいる。


〇ジヴェルニーの食卓
クロード・モネが暮らしたジヴェルニーで献身的に彼の製作を支えたのは義理の娘ブランシュだった。
二人があったのはブランシュが11歳のとき。モネは父エルネスト・オシュデの気に入りの画家で一家の夏の別荘に絵をかきにきたのだ。
そのときからブランシュは製作するモネのとりこになった。
やがてエルネストは破産。なぜかモネの家に一家で身をよせた。夫婦と子供6人!
モネには病弱なカミーユという妻がいて、息子もいたが、カミーユは幼い男の子二人を残して死んでしまう。エルネストも妻と子供を残してベルギーにいってしまい。奇妙な共同生活が始まる。
貧しいなかでも母マリアは一家のために手料理をつくり(かなりの腕だったようだ)、モネも必死で製作をしたり、借金を申し込んだり生活を支えた。ブランシュは貧しいながらもモネの製作の手伝いができてしあわせだった。カミーユが亡くなったとき製作できなくなったモネを支えたこともあった。
その後エルネストからは戻ってくるように手紙がきて、マリアと子どもたちは今の生活を続けたいと思ったが、世間からモネが攻撃されるのをはばかって出て行こうとする。しかしモネは止めて、みなで暮らそうという。
結局エルネストが亡くなるまで二人は結婚せずすごした。
ジヴェルニーの家はモネが見つけてきた土地にすこしずつ家や庭を整備したもので、物語のときには子どもたちはみな巣立って、残っているのはブランシュと使用人たちだけになっていた。ブランシュはモネの勧めでモネの長男ジャンと結婚するが、マリアもジャンもなくなりモネのところに戻っていた。
物語は晩年のモネがフランス政府とかわした睡蓮の絵の製作中に視力を失い、なんどもくじけそうになるのをブランシュと、モネの親友でフランスの元首相クレマンソーが励まし、支えるという場面と、ブランシュの思い出話が交錯して語られる。
クレマンソーはたびたびモネの家を訪れ昼食をともにした。ブランシュは母の残してくれたレシピをつかって彼をもてなし、クレマンソーもジヴェルニーの食卓が大のお気に入りだったのだ。
光あふれる家、食卓。あたたかい手料理。そんなものが目の前にうかぶお話でした。


ジヴェルニーの食卓

ジヴェルニーの食卓

  • 作者: 原田 マハ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2013/03/26
  • メディア: 単行本



タグ:原田 マハ
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