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始まっている未来 新しい経済学は可能か [雑学]

2009年に出版された対談と論文がはいった本。
このくらいだと、日本は長いデフレにはいっているところにリーマンショックがおきて、経済的ダメージをうけたところ。

宇沢弘文さんは1928年生まれ、東京大学で数学を専攻した後、経済学を学んだ。市場原理主義がアメリカ政府に採用されるころ現地の大学にいた経験がある。経済学会の動きも内部から解説されていた。社会共通資本という概念を唱え、市場原理だけの現代経済学に異議を唱えつづけてきた。

内橋克人さんは1932年生まれ、新聞記者を経て経済評論家。日本はずっとアメリカの経済政策に市場を提供し、日本の国益を差し出してきたと批判。アメリカの政策をあとからなぞるばかりで、日本の利益になっていない経済政策がとられてきたといっていた。宇沢さんの社会共通資本という考え方に共鳴しているようだった。

上の二人の4回にわたる対談(月刊誌「世界」に掲載)、補論として2つの座談会?(農業協同組合新聞に掲載)がのっていた。

宇沢さんが、そもそも資本主義には欠陥があることはアダム・スミスの時代から指摘されており、ケインズも指摘していると解説していた。
儲けるためには何をしてもいい、というルールしかなければ、一部の富裕層に富が集中する不均衡が発生すること、大量失業や、インフレなどの物価の不安定が発生するのは当たり前で、それを是正する政策や制度が必要だというのが、経済学者の共通認識だった。
ベトナム戦争のあと、アメリカは膨大な財政赤字と貿易赤字、インフレに悩まされ、固定相場を放棄。この過程でミルトン・フリードマンをリーダーとする市場原理主義者たちが世界中に影響を持つようになる。
新自由主義とは、企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという信念に基づいている。そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取引するような制度をつくるという考え方。社会共通資本とみなされる大気や教育、医療、公共交通機関も新しい市場で自由市場と自由貿易を追求するというもの。
パックス・アメリカーナの根本的な考え方。
市場原理主義はこの極端なもの。儲けるためにはなにをやってもよく、武力の行使も辞さない。これがベトナム戦争やイラク戦争を支えた理屈だという。
フリードマンは最初経済学の世界で嫌われ者だったが、市場原理主義を執拗に主張しつづけ、共産主義の脅威に対抗するためという理由で主流になっていく。
彼の主張がよくわかる言葉に
・自由を守るためなら共産主義者が何百万人死んでもかまわない(ベトナムで水素爆弾を使うという主張)
・黒人の子どもたちは遊ぶか勉強するかの選択で遊びを選んだのだから経済学者がとやかくいうことはできない
この思想は世界に輸出され、その国に経済的不均衡をもたらし、文化やコミュニティを破壊した。日本にもきている。
この思想の体現者として竹中平蔵氏の名前があげられ、小泉政権時代の改革とは、社会共通資本の破壊であったとしていた。
また、戦後の農業政策にも使われ、農村という社会共通資本を壊してしまったとも。

ニューディール政策は、銀行の行き過ぎた投資に歯止めをかけ、大規模開発によって社会共通資本を強化する目的があったのだが、成果が出る前に戦争に突入し、そのご市場原理主義者によって、民間の仕事を政府が奪うなどと批判され、解体されてしまう。

内橋氏は、資本主義の不均衡がおきているにも関わらず、ひたすらアメリカを追随し、経済政策の名のもとに富裕層と日本国内の市場に依存しない多国籍巨大企業ばかりが優遇され、国内の自律的回復力がなくなってしまっているという。
このために、世界経済のダメージをより多くうけ、さらに国内に自律回復する力がなくなっているという。

各種の諮問委員会などは、アメリカ追随の市場原理主義者で占められており、彼らは完全に市場を開放すればいいとばかり主張していて、それがまかり通っていると、怒って?いる。実際に規制緩和や市場開放がおこなわれたが、雇用も所得もふえていないのに、もっと改革しないからなどという。
日本では、ヨーロッパのような福祉国家の経験もなく、人権や労働権の認識が国民の間であいまいなものいけない。

日本がアメリカの植民地であるという例として、巨大な貿易不均衡が起きた1980年代のおわりごと、アメリカが日本に構造改革をもとめ、GNPの10%を生産性の上がらない公共投資にあてろといってきて、実行され、そのツケを国が地方自治体に押し付けたので、巨大な箱モノをかかえて破産する自治体まででた。といっていた。
アメリカの自動車産業のために道路を作り、余剰小麦を買うために給食にパンを出す。植民地だと。
日米安保は軍事だけでなく経済協力とのパッケージである。

日本の政治は鑑定独裁であり、政策を決めるのは私的な諮問委員会という制度も問題だと指摘していた。
内橋さんは4つの項目をあげて、日本が防波堤を失い、経済破たんにちかづいているという。
・地方自治体財政の破綻。
・再販問題(山間部では新聞は高くしろという、言論の自由などはまったく配慮しない主張)
・日本型自営業・地域の零細企業をはめるさせるようなむき出しの競争政策。
・労働基本権をご破算にする労働規制緩和
これらはフリードマンの思想に洗脳された人々が行い、この結果にも責任をとっていないという。

日本の諮問機関についても、私的なものであり、パートタイムであり、官僚や政治家から独立していないので意味がないとも。
こうしたやり方は政策全般にいえて、時間をかけて議論するという姿勢がない。

共産主義との対立のなかで、アメリカの経済学者は、おいつめられ市場原理主義者が力をもっていた経緯を宇沢さんが解説していた。彼らは、マルクス経済学者だけでなくケインズ経済学者も中傷・攻撃したという。
そんななかで、経済学を守ろうとした学者の行動、戦前の日本でも同じように志の高い経済学者がいたとも。


地方自治体が破たんする原因になった地方債のグランドデザインは総務省がやっているのに、いざとなったら、ツケは地方自治体にまわしている、自治体は行政サービスを削るしかなく、住民が被害者になっている。
しかし、こうした原因をいう経済学者もいない。

宇沢さんが論文の盗用で疑われた事件と、だれかの業績を盗む経済学者の存在を指摘。
経済学者といわれる人に、志のない人もいると。
その一方でパックス・アメリカーナから日本の文化や歴史を守ろうと尽力した人たちもいると指摘。
日本開発銀行の設備研究所の活動などを紹介していた。
ミルトン・フリードマンが学者のモラルを壊したともいっていた。

これまでの経済学は、その時々の権力の望むものをくみあげて作られた経典を拝む、血みどろの学問だった。
社会共通資本という概念をいれて、これは基本的にペイしない、決してもうけを求めない、原則赤字になるものを支えるのが政府の役割と認識し、その機能を果たせる形で持続的に維持する制度が必要。

宇沢さんが「国富論」の内容について解説し「富を求めるのは道を聞くためである」とし、「衣食足りて礼節を知る」ためと解説していた、自由放任主義(レッセフェール)とは違うと。
ジョン・スチュワート・ミルの「自由論」が自由の問題の最高の書物であり、リベラリズムの思想の原点としていた。
ミルは、マクロ経済的にはすべての経済的な変数が一定に保たれているが、ひとたび社会のなかに入ってみると、華やかで人間的な営みがあり、活気がある社会を定常状態と名付けた。
社会共通資本は、このミルの定常状態を実現するための具体的形としていた。

内橋さんは、人間が人間として人間らしく生きていくためにこそ、豊かさや、もろもろの道具としての財、つまり経済の力が必要なのであって、その逆ではないということとまとめていた。

現代はマネー資本主義の暴走を止められなかった。
内橋さんは、正しい主張をする経済学者は象牙の塔にひきこもり、誤った学説の経済学者が現実政治にかかわっているという。
宇沢さんは日本が公職追放を武器に、徹底的にパックス・アメリカーナに絡め取られた官僚が思想をあらゆる分野にひろめるかたちで、戦後の日本を導いてきたからといっていた。
60年代安保の大学闘争がその最後の戦いだったと。
そして、小泉・竹中改革の「金融経済教育」のプログラムは、パックス・アメリカーナの日本植民地化の最たるものといっていた。

宇沢氏は経済学の立て直しが必要だが、現在の大学の経済学は期待できない。
社会共通資本の考え方に共鳴してくれる他のぶんにゃのひとたちに期待している。

「ノーレム・ノヴァルム」は、ローマ法王在位中に一つは出されるドキュメント。その時々の世界が直面する重要な問題について深く考察し、ローマ教会の正式なドキュメントとして全世界のビショップに配布される。
1891年、レオ13世のものでは、資本主義の弊害として、資本家が自分たちの利益を追って、労働者・一般大衆を搾取しているのが原因とする一方、社会主義になれば問題は解決すると思うのは大間違いで、社会主義では人間としての存在自体が危ぶまれると指摘している。搾取とか階級的対立ではなく、人類が直面する問題をお互いに助け合って解決するべきとしている。
宇沢さんは1891年にヨハネ・パウロ二世に招かれて「新しいレールム・ノヴァルム」の制作に、アウトサイダーとして初めてかかわったのだそうで、社会主義の弊害として、社会主義のもとで市民の基本的権利は無視され、個人の自由は完全に剥奪され、人間的な尊厳は跡形もなく失われてしまったこと。そうかといって資本主義になればいいというのは大間違いで、市場原理主義的な考えが支配する資本主義には深刻な問題があると指摘する内容をまとめた。
法王は、この新しいノールム・ヴァルムを広めてほしいといっていたという。

いま、パックス・アメリカーナ崩壊が始まっている。次にでてくるものが必要だ。
しかし、いい方向にいくかは予断を許さない。

宇沢さんは志ある経済学者として、スティグリッツの名前をあげていた。


日本における「新しい経済学」は築きなおせるのか?
内橋さんは、パックス・アメリカーナの鎖から離脱し、真に学問的な自由をもとめて、翻訳経済学を超越することが若い学究者に求められる。間違った経済学は間違った政策を導き、その災厄は社会的弱者に集中する。新自由主義はアメリカでもすでに疑う人が多くなり、オバマ大統領の主張はむしろ、それを否定していて、その動きは今後広まるだろうといっていた。
宇沢さんはなんでもお金に換算する悪魔的考え方が市場原理主義に流れていることを忘れてはならないといっている。

内橋さんの「共生経済」と「FEC自給圏」
共生経済はマクロ経済を成り立たせる二つのセクター、共生セクターと競争セクターは原理が違う。
競争セクターは、分断、対立、競争を原理とし、その隙間に利益チャンスを挟み込む。
共生セクターは、連帯・参加・協同、このセクターの足腰を強化するのが21世紀の課題。
共生経済とは、F(食料)、E(エネルギー)、C(ケア)の自給圏を人間の生存権として追及していく経済のありかた。
FECの自給圏を築くことは人間の基本的「権」に属するとする。
重要な人間社会の基盤になるのは共生セクターであり、その構築へむけて努力を積み重ねるのが私たちの取るべき道。
それは「つくれるのにつくらせない」「買わせる」というグローバリズムの在り方に異を唱えること。
しかしFECを他国にゆだねるのは生存権に関わることであり、保護主義ではない。
今の貿易は実は超巨大多国籍企業による、会社内での取引が国をまたいでいるものが3分の一
そして、超巨大多国籍企業によるものが3分の一
あとの3分の一が本当の意味の国際協調を支えている貿易にすぎない。
アメリカが急速にいきずまったのはマネー関連の企業が肥大化してGDPに占める割合アが22%にもなっていたから。
マネーが先行すると超国家的な力をもってしまう。
今こそFECをマネーから守り、小さな自給圏を作っていく。そうすることで、地域の暮らしや労働を守ることができる。
自律した地域コミュニティを再生させるには、市場を道具として使うこと。自覚的消費者を育て、市場を使いこなす。
その結果、市場に使われるのではなく、人間が主語になる経済社会が可能になるのではないか。
EUには、そうした動きがあり、今回の危機にも、生活は苦しいが不安はない、ということもおきている。

宇沢さんが社会共通資本として地球環境をあげていた。
マルクス経済学でも近代経済学でも大気や自然環境は自由財として使っていいことになっている。しかしその結果が地球温暖化である。
宇沢さんは国民所得に応じた比例的炭素税や大気安定課国際基金という仕組みを提案し、ヨーロッパでは支持をえるものの、アメリカの横やりでつずれたといっていた。
排出権取引は、社会共通資本的にはおかしいともいう。

内橋さんは、今までの市場放任によって、最終的に神の手に導かれ最適な資源配分ができるという考え方は、特殊な時代の特殊な考え方であるといっている。経済危機を契機として「始まっている未来」として、新しい経済学が必要とされ、市民の行動あるいは環境に対する認識まで帰る時代がはじまろうとしているといっていた。

宇沢さんもパックス・ブリタニカの時代に、ケインズ、ベヴァリッジと並ぶ経済学者として、ジョーン・ロビンソンをあげ、「自由貿易の原理は帝国主義国家が力を増している時の原理であり、もっと協調的な世界を実現するためには、一人一人の人間の存在、人間の生きざまを守るということを中心にして、特に子供の世代のことを絶えず考えにいれなければいけない」という言葉を紹介している。彼女はアメリカの市場原理主義者と対立していて、日本に来る時もアメリカの上空は決して飛ばないほどのひとだったとか。


補論1 社会的共通資本としての農の営み

農政官僚は、日本の農業をおくれているとみなし、破壊してきた。気にしているのは自分たちの天下り先のみ。
食料自給率なんて、本気であげようとおもっていないし、農村を維持する気持ちもない。
食品安全にもあまり留意してこなかった。
また市場原理主義のため、人は儲けるために生きているという考えがまかりとおっているが、真実はそうではない。
NAFTAはメキシコの零細農家を破たんさせ、結果的にメキシコでは食料が暴騰して暴動がおこった。
それにも拘わらずアメリカはNAFTAの考えを世界中に広めようとしている。
WTOもNAFTAと同じ思想で動いており、国際機関だから必ずしも正しいというわけではない。
アメリカも自国の農業に補助金を出しておきながら(食料スタンプなどで農業予算にはいっていないからわからない)、他の国には厳しい自由貿易を要求するようなことをしているし、
アメリカインディアンから土地を奪ったり、ベトナムに枯葉剤をまいた補償などはしていない。
ため池は個人が儲けるためでなく、みんなが人間の生存を考えながら社会的営為として管理する、大事に守るということができるが、ダムにしてしまうと中央官僚的な仕組みにはいってしまい、自治権がなくなる。
こうした灌漑をおこなっていたオーストラリアは塩害に苦しんでいる。
地域の結いが残って、コモンズが維持される必要があるのに、ダムはそれを壊してしまう。

ため池のような農業の本来的あり方が軽んじられ、近代化をすすめたツケが農村を崩壊させ、耕地の利用率を低下させている。それなのに制作は労働生産性追求の大規模化一本やりのまま。日本の土地にあった生産力の発展方法が必要なのに。

宇沢さんは農村の定住者に文化功労年金を出すという提案をした。コメの補助金と同じくらいの額で実現可能だったが農水省の反対でつぶれたそうだ。
山村に住んで地域を守っていることに価値があるという考えだったが、受け入れられなかったという。

地方と大都市の不均衡は進み国土の52%が限界過疎地。
企業も外貨の半分は上位30社が稼ぐ。しかし雇用は1%。こうした企業は国内の市場を豊かにする必要がないので、日本にカネを流さない。
不均衡国家は、人々の共通の価値観が失われ、社会統合が崩れてしまう。
国内需要があれば景気は自律的に回復するのに、それが弱くなっている。

WTOは世界堂位置基準で、市場化・自由化していけば世界から貧困が消えるといっているが、現実は逆。
実行した国では貧困が拡大している。
それなのに先鋭化しているのは先進国の産業構造が農業からマネーにうつったためと思われる。
今度は投資を世界的に自由化しようとする動きがあり、NGOが阻止しているという。
もし、そんなことがおきると地場産業への制度融資や環境を守る公的施策が協定違反になる可能性があるという。
WTOの本質がマネー資本主義でかわってきている。

貿易の実態は、巨大多国籍企業によるっものが3分の2であり、水平的なものは3分の1であり、ブロックがかかって困るのは多国籍企業。だから農業を守るためのブロックに文句をつける。でも3分の1しか影響をうけないんだから、それはすり替え。
本来のWTOの役目はGATTのあとをうけて、無制限で投機的なマネーに秩序をあたえるはずが、この不安定なものを世界に広げてしまっている。

オバマ大統領もNAFTAに批判的で、アメリカでも市場原理主義に疑いをもつ人が増えていることの表れ。
それなのに、日本では新しいアメリカに気が付かないで従来の主張を繰り返す人が多い。

宇沢さんは農業農村は社会的共通資本であり工業とは違うといっている。
経済危機は農村に人を定着させるチャンス。オバマ大統領がいうような社会的正義にもとづく政策をきちんとうちだせばよい。
企業農業は地元のコミュニティを壊す可能性がある(効率を追求するから)、しかし地元と結びついてうまくいく例はヨーロッパにある。

コモンズとして村を守るために社会正義を主張し続けることが必要。


補論2 社会的共通資本と21世紀的課題
(宇沢さんの論文)
21世紀の展望をひらこうとするとき、中心的役割を果たすのは、ジョン・スチュアート・ミルに始まりジョン・デューイによって集大成されたリベラリズムの思想と、ソースティン・ヴェブレンの提起した制度主義。
制度主義は、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自律が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような、真の意味におけるリベラリズムの理念にかなった経済体制を実現しようとするものである。社会的共通資本は、この制度主義の考え方を具合的なかたちで表現したもの。

前にでてきたノールム・ノヴァルムの解説。

社会的共通資本とは、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような、自然環境や社会的装置を意味する。
私的な管理を認められるような資源でも、社会全体にとって共通の財産として管理・運営される。
それは、先験的。論理的基準では決められない。そのときどきの自然的、歴史的、倫理的、文化的、経済的、社会的、技術的諸条件によってきめられる。分権的市場経済制度が円滑に機能に、実質的所得配分が安定的となるような制度的諸条件を整備しようとするもの。

その管理・維持は、密接なかかわりをもつ生活者の集まりや職業的せんっ門下集団によって構成されるコモンズの立場でおこなわれる必要がある。

社会的共通資本の愚弟的な形態
・自然環境
・社会的インフラ
・制度資本(教育、医療、金融、司法、行政、出版など)

水俣病を例に環境と社会的共通資本についてかいていた。

アメリカの産業的・金融的資本が市場原理主義を武器に、世界の多くの国々で自然、社会、文化、人間を破壊している。
それは人間として最低の生き様である。

環境と経済の関係で変化がおこりつつある。
1972年ストックホルム環境会議と1992年リオ・デ・ジャネイロ環境会議。
産業化の影響が環境問題として私たちに迫ってきている。
アマゾンの長老から医薬品のヒントを聞き出して儲ける製薬会社と、長老たちに知的特許の代金を払わせようとしたブラジル政府に対し、長老たちは、自分たちの知識が人々の役にたつのならよいと申し出を断った。

社会的共通資本としての医療はどうあるべきか?医療を経済にあわせてはいけない。政府が医療の内容に深くかかわるべきではない。
社会的共通資本としての教育。ジョン・デューイの教育理念。社会的統合、平等、道徳的発達。
社会的共通資本としての数学。医療にヒポクラテスの言葉があるように、数学にはピタゴラスの定理に象徴される社会的共通資本がある。数学は言語とならんで人間が妊下であることを最も鮮明に表すもの。
社会的共通資本としての都市、ジェイコブズの4大原則と、人間的なみ力をもつ都市の提案
社会的共通資本としての農村、農の営みは人類の歴史で重要で将来にわたって基幹的地位をもつだろう。生産といより、人間的、社会的、自然的な意味をもつ。どの国にとっても、その人口の一定の割合が農村で生活していることが、社会的安定性を維持するために不可欠。日本の場合20%が望ましいと思う。若者にとって魅力ある農業をつくる。農業を工業と同じと考えたり比較したりしない。農の再生をめざす。


始まっている未来 新しい経済学は可能か

始まっている未来 新しい経済学は可能か

  • 作者: 内橋 克人
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/10/15
  • メディア: 単行本



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