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緑の革命とその暴力 [農業]

1993年に「ライト・ライブリーフッド賞」を受賞した著者は、インド出身の理論家で、
1982年科学・技術・天然資源政策研究財団を主催。
環境保護や女性の人権、開発・農業・遺伝子・ガット自由貿易などについて積極的に発言している。

パンジャブの悲劇として知られる数年にわたる暴力で、1986年には598人、1987年には1544人、1988年には3000人が殺された。
その原因は宗教や民族の争いであるといわれているが、真相はちがう。
「緑の革命」と銘打って行われた食糧生産の実験の結末が原因の一つである。
1970年にノーベル平和賞を受賞したノーマン・ボーローグは、「奇跡の種子」をつくりだし、発展途上国の経済成長のスピードを全般的に速めたとされている。
しかし、「奇跡種子」は決して豊かさをもたらさない。
これは準矮性の高収量品種(HYV)であるが、収量をあげるためには、多くのインプット、水・肥料・農薬を必要とする。
そして、できた収穫物から種子をとることはできない。
つまり、種子会社、肥料・農薬会社が儲かる仕組みになっているのだ。
ロックフェラー財団、世界銀行・そしてインドの新農業戦略をおしすすめる勢力によって、
パンジャブに地方にこの種子がもちこまれ、大規模に栽培がおこなわれた。
たしかに、小麦や稲などの換金しやすい穀物の収量はあがって、現金収入が増えたようにみえた。
だが、それまで輪作や昆作などによって栽培されていた豆類、キビ、油脂作物などは栽培されなくなった。
これらの伝統的農業は、外からのインプットがなくても、内部インプットだけで、豆類で窒素の固定をおこない、家畜の糞を堆肥化するなど循環的持続的に行われる合理的農業であったのが、新品種の画一的農業に変わったため破壊されてしまった。
結局、収量は増えて現金収入は増えても、種子・肥料・農薬・灌漑設備に莫大なお金がかかるため、農民の収入は増えず。それどころか借金が残ることさえあった。
最初は実験によってつくられた穀物は買い上げの補償があったが、それもなくなり、
実験から20年で農民の中には不満がつみあがった。
さらに悪いことに潅漑のためにくみあげた水で塩害がおこるなど、土地自体が疲弊してしまった。
そこに商業主義による道徳的社会的危機、水問題による政治紛争がからみパンジャブ危機が発生したのだ。

高収量品種と呼ばれる品種を使えば収量が増えるというのは間違いで、
これは高反応品種であり、特定のインプット(肥料)に反応が高いだけである。
収量だけなら、伝統的品種でも負けないものがいくつもある。
農民が何千年もかけてつくりあげてきた、持続可能な農業は、素晴らしいものである。
評価方法が、換金性だけだと、遅れた農業とみなされがちなのである。

潅漑は過去には洪水を防ぐためだったが、いまでは農業のためである。
水を過剰に使うことが不可能な地域でも潅漑がおこなわれ、塩類集積などの問題が引き起こされる。
大規模ダムは集中管理になるので、管理権をめぐって争いがおこり、
さらに汚泥の堆積や、需要の変化においつかず、ダムが水量管理の用をなしていないなどの問題がある。

引用。
開発は土壌から生まれる豊かさを破壊して国家の資力をそのかわりにもってくることによって、
新たな欠乏と乏しい資源をめぐる新たな対立が作られる。
豊かさではなく欠乏が状況を特徴づけており、そこでは神聖なものはなにもなく、すべてに値段がつけられている。
意味やアイディンティティが土壌から国へとシフトし、多元的な歴史から単一の歴史に移行するにつれて、
それまで残っていた民族的、宗教的、地域的な相違は「狭い民族主義」の拘束服に押し込められる。
精神的なよりどころである土壌や大地からその根を引き抜かれた地域社会は国民国家が示す権力モデルに自ら根をおろす。
多様性は二元性にかわり、排除の体験となり「内」と「外」にわかれる。
多様性の不寛容は新たな社会的疾病となり、共同体は決裂や暴力、衰退や破壊に弱くなる。
多様性の不寛容と文化的相違の持続は、同質的な開発プロジェクトを実行している同質的な国家がつくりだす状況のなかで共同体を多大に反目させる。相違が豊かな多様性となるかわりに偏向や分離主義の土台となっている。


緑の革命の経験にあきたらず、今度は遺伝子組み換えを使ったバイオ革命が行われようとしている。
今度は穀物でなく、加工食品のための作物をつくり、お金を稼ぎ、
主食の作物の生産は無視である。
多国籍企業ペプシコとインドの財閥の子会社で共同事業として行われる。
バイオテクノロジーは農薬の使用を増やす。(農薬を作物にあわせるより、作物を農薬にあわせるほうが安上がり)
インドでは数千の人間は農薬中毒で死んでいる。
農薬購入の借金で自殺する人、
農薬がきかなくなってさらに強い農薬が必要になるなどの悪循環。
さらには作物に組み込まれた農薬耐性が、他の雑草などにうつることもありえる。
作物種の導入とともに病気も導入されることは普通のことだが、検疫が甘くなると危険はさらに高まる。
しかし検疫は省略傾向にある。
インドの生態系が危機にさらされている。
種子と農薬を握る企業の農業支配は強まっている。
換金作物の輸出は食糧不足と借金の悪循環にはまる道であることが他の国でも証明されている。
雇用の創出で失業者が減ると計算されているが、自営業者の失業はおりこまれていない。
農業の工業化は農村の失業を拡大することは証明されている。


技術は社会よりも上とみなされているが、技術的変化は支配的な人々の優先順位によって形作られているという視点もある。
技術の発展のためなら社会的な犠牲が必然という考えは間違いだ。
低開発は一般的には近代西欧科学と技術システムの欠如がもたらす状況としてかかれているが、貧困と低開発はたいていは、数百万人の生計を支えている資源集約的で、資源破壊的な技術的プロセスの外部化された見えざるコストによってつくられている状況である。
特殊利益団体が始めた技術革新はその利益団体には開発をもたらすが、他の集団には低開発を押し付けるものであるということが歴史からわかる。

植民地化時代に繊維産業でも緑の革命と似たことがおこり、ガンジーは糸車をシンボルに抵抗した。
ガンジーの糸車は科学と技術の発展という概念における絶対主義と偽りの普遍性から生じた進歩と時代遅れの概念に対する挑戦。
民衆のもつ生産の管理権を進歩という名目で排除している。
工場と糸車の争いは新しい技術が出現してから続いている。

種子を商品化するなら
自己再生しない、またインプット(農薬)を必要とする、それもなるべくたくさん。
農民の収奪と遺伝的破壊の問題は、生態的な再生プロセスから生産の技術的プロセスへの移行である。

労働力を排除する農業のみが生産的であるという神話は問い直されている。
収量があがっても自然と生計を破壊するので、かえって悪くなる。
エネルギーと農薬を多用する農業から離れ、内部のインプットで持続可能な農業=代替農業を模索する動きはあり、
成功例もあるが、あまり注目されない。
また比較手段も公平ではない。(手間が少ないとか、売上が多いとか)

緑の革命とバイオテクノロジーの開発がもたらしている大きなパラドックスは現代の作物改良は、
その原料として使っている生物の耐用性を破壊することに基づいているということである。
技術の土台を破壊しているのだ。
多様性は生産の論理にしなければ多様性を保存することはできない。
実験室で白衣を着て実行するときには知的財産はみとめられるのに、農地で農民が行う種子生産位にはみとめられないのだ。
種子会社が開発した種子ももともとは自然のなかで何万年もかけて人間が生産してきたものである。
種子会社は開発の元にした種子の採取先に特許権を払っているわけではない。


すべの生命は貴重である。
私的財産の保護は、その下であり、制限されるべきである。
環境が先であり、私的所有権はその下である。


緑の革命とその暴力

緑の革命とその暴力

  • 作者: ヴァンダナ シヴァ
  • 出版社/メーカー: 日本経済評論社
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 単行本



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