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アインシュタインの宇宙 (講談社MOOK) [自然科学]

科学雑誌Quark創刊号から連載された10歳からの相対性理論をイラスト・文ともに再構成したムック本

第1部 アインシュタイン物語
イラストでアインシュタインの生涯がかかれている。

生まれたのはドイツのウルム、当時世界一の尖塔がたっていた。ここでは一時アインシュタイン通りと名付けられた通りがあったが、ヒトラーが政権についたとき名前が変わっている。アインシュタインがドイツ人だったから。そのごアインシュタイン通りに戻されている。

父親は電気工事店を営み、母親は宮廷御用商人の娘。1879年3月14日長男としてアルバート・アインシュタインが生まれる。
父親は酒場を経営したり、町工場をつくったりしていたがあまりうまくいかなかった。アルバートが1歳のときミュンヘンに引越ししている。
5歳のとき病気で寝ているアルバートに父親が羅針盤を与え、その不思議な振る舞いから「ものの背後には深く隠された何かがあるはずだ」と直感したという。
12歳の時ユークリッド幾何学の本を読んで感動。おじさんが教えてくれたピタゴラスの定理の証明を自分でするなど科学への興味を育てていく。
初等教育をおえて10歳でギムナジウム(大学進学予備校)に入学。両親はミラノに移住したので寄宿舎で一人だった。当時のドイツはビスマルクの富国強兵のさなかで、集団主義が蔓延しており、アルバートの性格にあわなかったこともあり、卒業試験の前に自主退学して、ミラノにいってしまう。
そのごギムナジウム卒業資格のいらないスイスのチューリヒ連邦工科大学を受験するが失敗。スイスのアールガウ州の州立学校職業科に通って勉強を続け、卒業後再びチューリヒ連邦工科大学を受験して合格する。
どこでも、好きな本ばかりよんで、馬鹿騒ぎには加わらず、バイオリンを弾いたりしている一匹オオカミだったが下宿のひとたちなどと親交はあった。
1896年大学で数理物理学の教師になる勉強を始める、4人の同級生の中に妻になるミレーバ、生涯の親友になるグロスマンがいる。数学者ミンコフスキーの講義などを夢中で聞いたが、ミンコフスキーはアインシュタインの印象を怠け者と語っている。
チューリヒ連邦工科大学の自由な気風の中、アルバートは好きなことだけを学び、好きなように行動した。興味のない授業はサボるし、身なりはボロボロ(おばさんからの月100フランの送金でくらしていた)、食事も成績も気にしないので、教授たちは怠け者、サボリ魔と非難、卒業時は大学で助手になれず、天文台からもらった黒点計算の仕事でくいつないでいた。
その後は代理教師などをしながら研究をつづけ1901年「毛管現象からの2・3の帰結」という論文を発表。これは毛管現象を粒子の振る舞いから説明しようとするものだった。この間にチューリヒの市民権をとる。
1902年の春親友グロスマンの口利きでスイス連邦特許局三級技師となる。この仕事は書類の作成さえ終えれば、自由な時間がたっぷりあったのでアルバートは気に入っていた。この年父親が死去。
生活が安定したアルバートは結婚を約束していたミレーバをチューリヒからベルンに呼んで1903年に結婚。
特許局の仕事の合間に数学や物理学の教師をしていたが、そこで知り合った哲学を学ぶ学生ソロヴィン、そしてハビヒトという学生もくわわって「ゆかいなアカデミー」とよんだ会合をして議論をして楽しんだ。
アインシュタインは16歳のときに思いついた問題にとりくんでいた
「もし、自分が光速で走っていたら、自分が持っている鏡に自分の顔は写るのだろうか?」
また参考にしたのはマッハの思想
「自然科学では経験的に実証不可能な問題を扱ってはならない」「時間と空間は絶対的ものではない」に影響をうけた。

当時ニュートン力学は絶体ですべてを証明できるとされていたが、そこにほころびが見え始めていた。
光を波とする当時の説では波を伝える媒体エーテルがなければならない。それを探したりしていたが、実験ではみつからない。この実験はマイケルソンーモーリー実験と呼ばれるが、アルバートはここから観測者がどんな動きをしても光の速さは秒速30万キロメートルと結論。だから光速度で走る自分の前の鏡には自分の顔が映る」と結論。しかしエーテルが無いなら光は並ではない。ではなんなのか。

1904年最初の子どもハンスが生まれる。グロスマンにもこのころ子どもが生まれ二人は手紙で仕事の進み具合を伝え合っていた。
1900年マックス・プランクが光のエネルギーはとびとびでなければならないと主張。
ファラデーの電磁場、ローレンツの電子。
ニュートンを頂点とする古典物理学は崩れようとしていた。
そして新しい一般原則は「光より速いものはなく、そしてどこにいようとも光の速度は一定である。」アルバートはそう結論する。

1905年、物理年報「アナーレン・デア・フィジーク」」に26歳のアルバートは5本の論文を発表。
「分子の大きさの新しい決定」親友グロスマンにささげたものでプランク運動の新しい考え方(光量子論)を述べたもの。この論文で1921年にアルバートはノーベル賞を受賞している。
「運動物体の電気力学」はE=mc^2の特殊相対性論がかかれていて、世界を震撼させアルバートを映画スターのように有名にした。これは質量保存の法則を覆すものであった。
相対性理論のアイデアはある晴れた日の朝、とつぜんやってきたとアルバートは語っている。そのアイデアは時間の縮み。光の速さが一定なら、時間は絶対ではなく相対的だ。Aの1秒はBの2秒にあたるということがありえる。
この論文の偉大さがわかったのはベルンのかれのゆかいなアカデミーのなかまたちなどだった。
しかし徐々に世界がきがついて、1905年秋にはマックス・プランクが大学の講演でアインシュタインを賛美している。これをきいたぷランプの助手ラウエは特許局までアインシュタインに会いに行っている。しかし印象はぱっとしなかったらしい。ラウエのところの若き研究者ラウプはアインシュタインと意気投合して、しばしば特許局から彼をつれだして議論。のちに共同論文を執筆している。熱狂は徐々に広がりつつあったが、ローレンツは反発、しかし著名な科学者がアインシュタインを支持。かれの理論がうけいれられていく。

1907年ベルン大学の講義資格を得ようとして断られるが、翌年には理論が浸透していて許可がおりる。
しかし講義は人があつまらず休講に。しkしチューリヒ大学のクライナー教授が講義をきいて、物理学の学員教授に迎えられる。これにはチューリヒ工科大学の友人アドラーの助力もあったらしい。
1909年アインシュタインは特許局を辞職。チューリヒに移住する。お金がないので自分で荷車を曳いて引っ越した。
特許局の上司はチューリヒ大学の教授になるときいて「ウソをいうな!」といったという。

チューリヒでは偶然アドラーと同じ下宿にすみ、親交を深め、
楽しく教壇にたち(授業はかなり型破りだったらしい)、一般相対性理論への研究もおこなっていた。
また星の近日点の永年移動について重力の曲りで説明したり、ザルツブルグの自然科学者大会でマックス・プランクらと会う。

1910年次男エドワードが誕生。このころからいろんな大学から教授に来てくれと誘われるが、プラハ大学が一番熱心で俸給も高く、初代学長はアインシュタインが尊敬してやまないエルンスト・マッハだった。そこでアインシュタインはプラハ大学にいく決意をするが、任命は彼がユダヤ人だからという理由で1か月おくれた。ともあれ無事に就任することができ、就任講演も大盛況に終わる。

プラハでは国の大学の教授であるので立場はオーストリア・ハンガリー帝国の官吏であり、儀式などもあったし、反対論者による不毛な討論会などが多く、アインシュタインは1年半でプラハを去る。しかしここで親友パウル・エーレンフェスト(彼もユダヤ人)と出会う。プラハでは二人は一般相対性理論を巡って議論を重ねた。
「自由落下するエレベータの中の客の身に何がおきるのだろう」という少年時代の空想から出発した慣性も加速度によって生じる慣性も同じものと考える方法などが議論された。
その後エーレンフェストはオランダのライデン大学にローレンツの後任として迎えられるが1933年に自殺してしまう。

プラハでは数少ない直弟子となるオットー・シュテルンにも出会っている。物理学の国際会議マリー・キュリーにもあっているし、家族で山登りなどした。ポアンカレ、プランク、ラザフォード、ローレンツらも出席していた。
親友グロスマンの誘いでスイス連邦工科大学にさそわれ正教授に就任。チューリヒへとやってくる。

1912年アインシュタインは重力理論の糸口をつかみ、それを行き会った学生にとうとうと解説。
1913年にはグロスマンと共同研究で重力理論の基礎を発表。
しかし証明は7年後の日食までまたなければいけない。

1913年夏にアインシュタインはプランクらにベルリンに誘われる、物理学研究所の所長とプロシア科学アカデミー会員に任命するというもので、アインシュタインはあまりドイツを好きでなかったが、承諾。ベルリンに移る。しかしミレーバと二人の息子はチューリヒにとどまり、二人の結婚は終わる。
その後第一次世界大戦が勃発。アインシュタインの一般相対性理論の論文は大戦のさなか1915年から1916年に発表された。また、ミレーバと正式に離婚、その後エルザという女性と再婚。連れ子の二人の娘がいるひとだった。
1919年皆既日食で光が大きな重力場で曲がることが証明される。
このニュースでアインシュタインは科学に興味のない一般の人にいたるまで、有名人となった。
このころ母親がベルリンのアインシュタインのもとに身を寄せてまもなくなくなっている。

世界的有名人になったものの、敗戦国ドイツでは反ユダヤ感情がたかまり、科学者仲間からも攻撃をうけるようになる。
オランダのエーレンフェレトをたびたび訪れるなどして耐えていた。
1921年シオニズム指導者に誘われてヘブライ大学建設支援のためアメリカへいく。あまり気がすすまなかったようだ。
アメリカで熱狂的に迎えられ、講演は大盛況に終わるが、ウィーンではヒトラーが台頭。
1922年にドイツに戻るがユダヤ人への迫害は厳しくなり、相対性理論は悪魔の理論といわれる。
国内では批判されていたが、、科学の分野では一般相対性理論の裏付けが着々とおこなわれていた。
ハッブルが宇宙の膨張を発見して、アインシュタインは一般相対性理論から宇宙項という項目を削る。
ノーベル賞を受賞するが、対象は光量子論に対してだった。
この年日本を訪れる。日本を気に入ったようで、別れるときは涙をこらえきれなかったといわれている。
日本からの帰路パレスチナにより、ヘブライ大学で講演。
ノーベル賞の賞金は離婚した妻ミレーバと二人の息子の生活費になったという。
1925年には暗殺未遂事件も起きるが、プランクは一貫してアインシュタインをかばう。

1920年から親交があるボーアとは創造的な論戦を繰り返す。
光が観測の方法によって粒子にも波にもなるという確率的なありかたをアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と批判したが、そのたびにボーアらコペンハーゲン派に論破されたという。
アインシュタインは統一場理論(宇宙に働く力を一つの原理のもとに説明する)に取り組むが失敗に終わる。未完のライフワークとしてペンネローズやホーキングたちが引き継ぐ。

平和運動にも積極的にかかわるが、国際連盟には幻滅してのちに離脱している。
ドイツはナチス党が支配を強め、1933年、それまでたびたび研究に滞在しているアメリカに亡命。
大歓迎をうけて、プリンストン高等研究所に落ち着く。
1936年妻のエルザと親友グロスマンがなくなる。
そのころドイツの科学者、オットー・ハーンとシュトラースマンがウランの核原子に中性子をぶつけてガリウムの原子核を生み出す方法を発見。原子爆弾製造の道が開かれる。
ナチスが原子爆弾を持つことを恐れたアインシュタインはルーズベルトに手紙を書いてアメリカが原子爆弾をつくることを進める。しかし、原子爆弾が広島に落とされ、アインシュタインは後悔したという。以降は一貫して反戦の立場を貫き、核兵器廃絶を訴えた。統一磁場理論の研究もつづけていたが、1955年4月18日亡くなった。遺骨は妻エルザと同じ墓に葬られた。



第2部アインシュタインの世界
写真でみる生涯
生まれた家や出征登記簿
父や母、祖父母の写真、妹と撮った写真。
ギムナジウムでの写真。先生の写真。妹と撮った写真や学生時代の通信簿。ミラノのアパートの入り口
アーウラ州立大学での写真
親友グロスマンや、影響をうけたエルンスト・マッハ、先生だったミンコフスキー。学生時代のアインシュタインの写真。
特許局での机の写真、ベルンのゆかいなアカデミーの仲間の写真、ミレーバとの結婚写真。息子がうまれたときの写真。
論文でE=mc^2を発表したころの写真。
妹のマヤの結婚写真。アインシュタインの特許局への辞職願。ベルンの家、ソルヴェイ会議の写真。
ミレーバと息子二人の写真。ベルリン・イラスト新聞の表紙になったときの写真。
再婚間もないころのエルザとの写真。ベルリンのアインシュタイン家の表札。
オランダのエーレンフェストの家での写真
ニューヨークについたアインシュタイン夫妻。
アメリカ大統領ハーディングとの写真、スタインメッツとの写真。
ノーベル賞を受賞したころの写真。京都での写真。
ニール・ボーアとの写真、スイスに住んでいた長男との写真。マックス・プランクからメダルを受け取る写真。
妻と娘との写真。ベルリンの別荘(購入したがすまなかった)、バイオリンを弾くアインシュタイン。ソルボンヌ大学から名誉学位をうける写真。
カリフォルニア工科大学の客員教授をしていたときの写真。チャップリンとの写真。
アメリカの市民としてプリンストンに住んでいたころの写真。
晩年のバイオリンを弾く姿や自宅でイレーヌ・キュリーと話す姿、ソファいでパイプをもっている姿など
死を前に手術は拒否。脳の提供をたのまれて同意。しかし脳の解剖では特に変わったところはなかったという。
30年後にアインシュタインの脳がみつかり、再度しらべたところグリア細胞が多いことがわかったという。

有名人なのに孤独であったアインシュタインの人生にその言葉からせまる
「自然の前に立つとき、理論物理学者は何とみじめにも無力であることかーそして、学生の前に立つときも!」
「学ぶこと、つまり心理と美の探求は、われわれが生涯子どものままでいること許してくれる分野だ」
「私は神がどういう原理に基づいてこの世界を創造したものかが知りたい。神の考えが知りたい。そのほかのことは、小さなことだ」


第3部 相対論と宇宙ロマンを語る
座談会形式。佐藤勝彦、前田恵一、都筑卓司
それぞれの相対性理論との出会い。特殊相対性理論のほうが難しいと思っていたなどのエピソード。
わからなかったけど、おもしろそうだったとか、時間がおくれるなんてSFみたいだとか。

距離とか時間を絶対的なものでなく、光が絶対的だと考える発想の転換。難しい数学をつかったとかではなく、その美意識というかアイデアが素晴らしかった。
ローレンツ変換はアインシュタイン以前からあったけど、アインシュタインが時間というものは、どのような運動をして「事件」を見るかにかかわってくるとして変換法則をだしてみたら、ローレンツ変換だった。
ただ、いままでは説明が複雑だったけど、相対性理論をつかうとすっきりシンプルにいったわけだ。

結局相対性理論ではノーベル賞はもらっていないけど、2度は目は無理だったのか?一般は証拠をあつめている最中だったけど、特殊はみとめられていたしね。

一般相対性理論は、重力と慣性が等価と考える。
重力をふくめた物理。
空間が曲がっているということ。ただしそれを知るには光を用いるしかない。
光も曲がる。
これを証明したのがエディントンの日食の観察。これでアインシュタインは世界的に有名になった。
水星の近日点の観察でもわかる。重力の強いところでの惑星の運動が証明になる。
地球の重力場でこの空間も歪んでいるはずだが、観測されたことはない。
パルサーは重力が大きいのでむいている。
アインシュタインは重力波を予言しているが、これはまだ見つかっていない。

空間が曲がる、空間が縮むことはブラックホールの説明に使われた。
星の進化の中で中性子星になるかブラックホールになるか明確な理論は無く、いまも研究が続いている。
ホーキングは研究のなかでブラックホールは出口もあるとした。その仕事は相対論と量子論の両方をつかって成果をあげたといういみで素晴らしいこと。
アインシュタインは量子論がきらいだった。

統一理論は膨張理論をふくまなかったのはなぜか?美意識からか?
それとも一人の人間の限界か?
アインシュタインが否定しても宇宙が膨張していることはハッブルらの観測で裏付けられ、アインシュタインが間違いをみとめている。

宇宙の始まりについてはペンネローズとホーキングが特異点定理をだして数学的に証明したあと、特異点をなくす理論をだす。一般相対論で初期値がかけていたのを、ホーキングは初期値を量子論にあずけてしまった。

宇宙の始まりをしるためには素粒子をしらないといけない。
それを調べる道具として統一理論が発展する。真空がエネルギーを持っていると考えるんだって。
なんか宇宙項が膨張の為に使うといいらしい。

アインシュタインの重力理論はいろんな重力理論がでては消えたけど、いまでも生き残っている。
定常宇宙論も一度きえたが宇宙項みたいに復活するかも。



ニュートン重力理論ではどんなに離れていても瞬時に重力が働くが、アインシュタインはものの伝播速度は有限と考える。



アインシュタインの宇宙 (講談社MOOK)

アインシュタインの宇宙 (講談社MOOK)

  • 作者: 講談社Quark編集部
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1991/06
  • メディア: 単行本



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