So-net無料ブログ作成

本のベストセラー

読むだけですっきりわかる日本史 [雑学]

読むだけですっきり頭に入る日本史を改定改題して文庫化したもの。
対象は歴史嫌い、歴史が苦手な人
条件はとにかく一冊にまとめること。教科書レベルの内容はすべて取り扱うこと。難しい歴史用語などは使わないか解説を加えること。教科書に載っていないことでも有名なエピソードは網羅すること。何よりわかりやすくて面白くて一気に読めてしまえるような本であること。
漫画でもよいが、それだと20冊くらいになってしまうのが、1冊ですむ。

本当に1冊で旧石器時代から平成のバブル崩壊まで網羅していた。

第1章 旧石器~古墳時代
旧石器時代・・・数万年前、まだ日本列島がユーラシア大陸と地続きだったと考えられる。打製石器を使った時代。
1949年相沢忠洋という青年が日本で初めて旧石器を発見。日本にも旧石器時代があったことが確認されたが、学歴のない彼は功績を横取りされうそつきよばわりされるという悲劇にあう。しかし、あきらめず発掘を続け、その功績がみとめられるようになった。

縄文時代・・・1万年前、気温が上がって氷河がたけ、日本列島はユーラシア大陸と離れる。土をこねて土器をつくり縄目の紋様をつけた。磨製石器を使った。土偶。三内丸山遺跡が有名
このころのゴミ捨て場貝塚を発見したのはアメリカ人のエドワード=シルベスタ=モースが来日2日目に大森貝塚をみつけた。

弥生時代・・・縄文時代が1万年続いた後、紀元前5世紀ごろまでに大陸の中国や朝鮮半島から稲作が伝わる。金属器も伝わる、最初は青銅、その後鉄器が伝わる。縄目のない丈夫なすっきりした土器がつくられる、東京の弥生町で見つかったから弥生土器。高床倉庫、登呂遺跡が有名だったけど、今は吉野ヶ里遺跡が有名。稲作のリーダーがうまれくにができる。

中国の王朝をざっと解説
伝説の夏、甲骨文字の殷、始皇帝と万里の長城の秦、四面楚歌で有名な項羽と劉邦の時代を経て漢、途中中断しながら400年続いて、その後三国時代、北と南でいくつかの王朝が興っては滅びる魏晋南北朝時代を経て、聖徳太子が使者を送った隋が統一、日本にも影響を与えた唐、唐のあとは南部を平清盛と貿易した宋、その後チンギス=ハンの孫フビライの元、足利義満が貿易した明、満州人の支配する清、現代に入って中華民国、第二次世界大戦、共産党の支配する中華人民共和国となる。

中国の歴史書にのこされた古代の日本の記録
「漢書」地理志
「後漢書」東夷伝
「三国志」「魏志」倭人伝
金印の話など

古墳時代・・・3世紀後半。大和を中心に古墳がつくられる。
前方後円墳は日本にしかない様式。昔の仁徳天皇陵は発掘できないので誰のお墓かわからないので大仙古墳とあらためられた。古墳の副葬品埴輪
古墳から大和地方を中心に大和朝廷が存在したと考えられている。当初豪族の連合政権だったのが、5世紀には近畿を中心に九州から東北地方南部まで支配下においた。その王は大王(おおきみ)と呼ばれた。
4世紀おわりごろには朝鮮半島で高句麗や新羅と戦っていたことが好太王の碑にきざまれている。
5世紀には中国の一部を支配していた宋に和の五王(讃、珍、済、興、武)が朝貢した記録がある。
大陸から渡来人が来て文化を伝えた。


第2章 飛鳥~天武王朝時代
天皇中心国家の形成

蘇我氏の勢力が増して横暴になる
推古天皇の摂政として聖徳太子が立つ。推古天皇は女帝。摂政は天皇が女性や子供のときついて政治をやる人
聖徳太子による冠位十二階(氏姓制度の時代に人事登用制度をつくった)と17条の憲法(今の憲法と違って役人が守るべき心得、和を大切にして話し合いでイロイロ決めようとか、仏教を大切にしようとか、天皇のいうことを必ず聞くこととか)、神を祖先とする天皇家が仏教重視というのは面白い現象。
607年小野妹子らを遣隋使派遣、この人小野小町や小野東風のご先祖。中華思想の中国に対等に書状を送って煬帝を怒らせたみたいだけど、朝鮮と戦争で忙しかったから見逃されたんじゃないかという説がある。
飛鳥文化は聖徳太子の頃の文化、特徴は仏教中心と、国際色の強さ・・・法隆寺、釈迦三尊像、百済観音像、玉虫厨子

大化の改新
聖徳太子がなくなると再び蘇我の専横がおきる。山背大兄王一族抹殺など
645年中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺を企てて実行、その後孝徳天皇(中大兄皇子じゃないよ、彼は皇太子のまま)が即位していろいろ改革をする。これが大化の改新。
内容は公地公民(土地は全部天皇のもの)、班田収授法(人間一人当たりに区分田という土地を与えた)、租庸調制(祖は収穫の3%の米、庸は無償労働または布、調は地方の特産物)、国郡里制
めざしたのは中央集権国家。

663年白村江の戦い・・・朝鮮半島の百済が滅んでこれを助ける名目で出兵したが敗退、報復をおそれた中大兄皇子は都を大津にうつしそこで天智天皇として即位、近江令という法律をつくったり、大宰府に防人をおいたりした。

672年壬申の乱・・・天智天皇の死後、息子の大友の皇子と、弟の大海人皇子のあいだで起こった戦い。勝利した大海人皇子が天武天皇として即位。敗れた大友皇子には明治になってから弘文天皇とおくり名されている。
飛鳥浄御原宮に都をうつし飛鳥浄御原令という最古の律令を制定したといわれている。
天武天皇の家系は不幸が多い。正妻は天智天皇の娘だったが、息子の草壁皇子が早世、孫がおおきくなるまで持統天皇として即位、このとき最古の金属製貨幣富本銭を鋳造したといわれている。
孫の軽皇子が即位して文武天皇となるが、20代で亡くなっている、在位中の701年には大宝律令が制定されている。
和同開珎・・・・708年武蔵野国秩父で銅が算出したのを記念して年号が和同となり、銅銭が鋳造された。


第3章 奈良時代
平城京と仏教の時代
701年 天智天皇の4女元明天皇は長安をモデルとした都を奈良につくる。これが平城京。皇居を中心に碁盤の目のように整備された立派な都だった。
都は立派だったが、人々は良民、賤民にわけられ、奴婢と呼ばれた人たちは売買されていたし、租庸調の税がきつく、東国の農民はいまだに竪穴式住居にくらしていた。防人も移動は自腹で、いってるあいだ税も免除されないというひどいもの。これらは万葉集に詠まれている。万葉集には農民らの歌もはいっているのが特徴。一方で貴族も権力闘争があった。

723年三世一身の法・・・口分田が足りなくなり、開墾した土地を3代かぎり自分のものとしていいとした。でもあまり人気がなかった、寿命もみじかかったし。
743年墾田永年私財法・・・開墾したら自分の土地としていいとした。平安時代には朝廷が自分の首をしめることになる。

聖武天皇の登場
天武系の皇子は本当に早世がおおいので、彼は元明天皇の孫にあたる、間に叔母の元正天皇もいる。
というわけでひさびさの男性天皇だったが、奥さんの光明子が藤原氏の娘で、藤原氏は彼女を皇族でない初の皇后にしようと画策して長屋王の変がおきる。反対派の長屋王などを殺した藤原氏は光明子を皇后にすることに成功。
しかしその後光明皇后の兄弟4人が病気でなくなったり、天然痘や災害がおきる。聖武天皇は仏教のチカラで災厄をおいはらおうと全国に国分寺や国分尼寺をたて、その極めつけが東大寺。
大仏を作るとき協力したのが行基、彼は私度僧といって正式な僧でなかったので弾圧されていたが、あまりの人気に朝廷が大仏工事に協力させるためとりたてた。しかし大仏建立で民はますます苦しんだともいわれている。

遣唐使
有名なのは阿倍仲麻呂、優秀で唐の役人になったが、帰国の船はすべて難破して中国で一生を終えた。
鑑真は中国の高僧だったが、日本の要請にこたえて10年の歳月をかけて渡航。唐招提寺を作って正しい仏典を伝えた。

天平文化
仏教の影響が強い、唐の影響が強い。
建築物では東大寺、特に正倉院。
歌集は「万葉集」
古事記、日本書紀という歴史書。ただし時の政権の正統性を主張するために書かれているという説がある。
風土記は地理の本だが、残っているのは出雲のみ。常陸、播磨、豊後、肥後は一部ある。



第4章 平安時代
藤原摂関政治から武士の時代へ

794年桓武天皇が京都に平安京を建設。理由は一応奈良の仏教勢力が強くなりすぎたからといわれている。
桓武天皇は平安神宮に祀られている。
桓武天皇のやったことは、徴兵制の廃止と健児(地方の役人の子弟で馬や弓に長けていたものを軍隊として組織)の新設。地方の役人国司を取り締まる勘解由使という役人の新設。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命しての蝦夷征伐。
蝦夷のリーダーアテルイを捕えることに成功。田村麻呂は助命をするが処刑された。あと清水寺は田村麻呂の建立といわれている。
平安初期の政治は律令制で天皇親政が特徴。

平安新仏教
遣唐使の僧が奈良時代とちがう仏教を伝える。
最澄の天台宗、山は比叡山、寺は延暦寺、のちに伝教大師
空海の真言宗、山は高野山、寺は金剛峰寺、のちに弘法大師
両方とも密教とよばれるもので山に寺をつくってこもって修行して悟りを開くもの。

藤原氏の摂関政治
9世紀後半から、天皇親政から摂関政治にうつる。
一族の娘を天皇の妃にして、その子が天皇になる方法で勢力を拡大。
藤原良房が天皇家以外の初の太政大臣で実質摂政。
藤原基経が人身初の関白(天皇が成人しても政治を行う人)になってしまう。

遣唐使廃止と国風文化と菅原道真
894年菅原道真の意見で政情が悪くなっていた唐への遣唐使を廃止。国風文化が育つ。
菅原道真はあまり身分の高くない貴族だったが頭がよかったので宇多天皇にかわいがられその息子の醍醐天皇のとき右大臣になる。しかし藤原氏の恨みをかって陰謀で大宰府に流されそこでなくなる。そのご都に災害(雷が宮中におちるなど)があったため、道真のたたりと恐れられ道真は学問と雷の神様=天神様として祀られる。

国風文化とされるもの、かな文字とそれで書かれた「源氏物語」「枕草子」。紀貫之の古今和歌集(かな文字ではない)。「竹取物語」「土佐日記」。
建物では平等院鳳凰堂と奥州藤原氏(京都の藤原氏ではない)の中尊寺金色堂。
大和絵でかかれた絵巻物。


武士の起こり
墾田永年私財法によって開墾した土地は自分のものだが、それを守るのも自分。というわけで力のない人たちは開墾した土地を貴族や寺院に寄付してそこの管理人にしてもらう。そうした土地を荘園といって、貴族や寺院はそこに不輸の権、不入の権という権利をもち(要するに税金を納めない、役人立ち入りを拒む)財力をつけていく。逆に日本国の税は減るわけで貧しかった。とうわけで国は警察も十分に組織できないから野党や海賊があばれる、すると土地を持つ側もガードマンを雇うようになる。それは武装した農民たちだった。身分の高い貴族や国の警察に所属していた人たちも武士になり、武士団が形成される。このおおきなものが平氏と源氏。

平将門の乱と藤原純友の乱
最初は軽くあつかわれていた武士がその力を恐れられるようになった二つの事件。
平将門は関東で朝廷に反旗を翻し
藤原純友は瀬戸内海で朝廷に反乱を起こす
どちらも失敗に終わるが、武士の力をみせつけた。

藤原道長、頼通親子
摂関政治最盛期の藤原氏、道長の3人の娘は三人の天皇の皇后になっている。
一条天皇に嫁いだ彰子の家庭教師が「源氏物語」の紫式部、ちなみに同じ一条天皇の妃だった定子の家庭教師が「枕草子」の清少納言。
頼通は平等院鳳凰堂を立てた人で、寝殿造が有名。これは浄土教の建物。
この時代末法思想といって、釈迦が死んで1500年から2000年たつと釈迦の正しい教えが伝わらない時代になると信じられていた。その時代に入ったのではと恐れる貴族たちは、末法でも救われる教えをもとめて『浄土教」に走る。これは阿弥陀仏が「悟りを開いて仏になれたら、私を信じる人は救ってあげる」といったのを基に阿弥陀仏を拝めるもの。(本当に悟りをひらいたかさだかではない)

白河上皇の陰性
11世紀半ば、藤原氏の皇后に子供が生まれず、藤原氏の血をほとんどひいていない後三条天皇が即位。藤原氏の影響を排除しようと院政をはじめる。
院政は自分は天皇を退位して上皇になり、院という場所で政治をするもの。後三条天皇は実行前に死んでしまうが、1086年に息子の白河上皇が院政をはじめた。これにより藤原氏は一時ほどの勢いがなくなる。

1156年保元の乱・・・上皇だらけで権力争いがおきたあと、崇徳上皇と後白河天皇の間で政権争い発生。
崇徳上皇+藤原頼長+平忠正+源為義
後白河天皇+藤原忠通+平清盛+源義朝
藤原は兄弟、平氏は叔父と甥、源は親子
結果は天皇の圧勝。上皇は讃岐に流刑になり、そこで写経したものを朝廷に送ったら受け取り拒否されて呪い殺してやるっていいながら半分くるって死んだといわれている。頼長は討ち死に、忠正、為義は六条河原で処刑。処刑は久しぶりだった平安貴族は怨霊が怖かったのでめったに処刑しなかったらしい。
その後平清盛が天皇に可愛がられるのが気に入らないと源義朝が反乱。これが1159年平治の乱。このとき参戦した頼朝は殺されるところだったが、清盛の継母池禅尼が息子に似ていると助命をして助かって伊豆に島流しになった。義経も赤ん坊だったが母親の常盤御前の美貌に目がくらんだ清盛がその子供を助けたので京都の鞍馬寺にあづけられた。

平治の乱で勝利した平清盛はイケイケで一族が大繁栄。清盛は武士で初めての太政大臣になった。
中国の宋と神戸で貿易をして財政的にも豊かになる。
おもしろくない後白河法皇は平家を討伐するよう命令。各地の源氏が挙兵する。
伊豆の頼朝は北条家の娘政子と結婚、末流ではあるが平家の一族である北条氏を味方につける。敗戦もあったけど、富士川の戦いで奥州藤原氏にかくまわれていた義経が合流。勝利を収める。頼朝はその後平家を追わず関東にとどまり東国をまとめる。平家討伐には義経がむかう。一方義仲は単独で京都にはいる、清盛が病死したこともあり、一時は京都を占領するが乱暴を働いたとして後白河法皇から討伐命令がでて、義経に宇治川の合戦で敗れ殺される。平家と義経はその後一の谷で合戦して、義経がすごいガケを駆け下りる奇襲で勝利する。その後四国では屋島の合戦がありこのとき那須与一と「扇の的」の話があった。その後壇ノ浦で平家が滅び、8歳の安徳天皇と祖母の二位の尼(清盛未亡人)が入水してなくなる。母の健礼門院平徳子(高倉天皇の皇后)は助け出される。
頼朝は征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府がはじまるが、義経は後白河法皇から頼朝に無断で位を受けたなどといわれ兄に追われ奥州まで逃れるが、藤原氏の裏切りに会い殺されたといわれている。




第5章 鎌倉時代
北条執権、鎌倉御家人、兵どもが夢のあと

鎌倉幕府の仕組み
地方を収める守護と地頭を設置。守護は国ごと、地頭は荘園に設置、荘園から収穫の一部を徴収。
中央は御家人(頼朝の家来)を取りしまる侍所、幕府のお金を管理する政所、裁判をする注文所。一番偉いのは将軍でその下に執権があいる。
頼朝と御家人は御恩と奉公の関係で結ばれる。御恩は領地を与えたり領地を守ったりしてくれること。方向は御家人が幕府の役人になって働いたり、大事件(いざ鎌倉)のときには命がけでかけつけたりする。この仕組みを封建制度という。

めでたく幕府を開いた頼朝だが落馬してなくなってしまう。成人した息子頼家がいたけど、御家人の評判が悪い人で追放されて伊豆で亡くなった。その息子は長男は殺されていて次男は出家している、3代目将軍は頼家の弟実朝が選ばれたが、政治より文化が好きで藤原定家の弟子になって和歌を詠むような人だった。鶴岡八幡宮に参拝したとき甥の公暁(出家していた次男)に刺されてなくなる。公暁は処刑されて源氏の直系は絶える。
その後北条氏がまだ存命の政子、そして執権職を世襲することで権力を掌握、将軍は京都から公家の子どもをつれてきた。藤原氏の摂関政治に近い。京都でも藤原氏が摂関政治を続けているけどあまりめだたない。

承久の乱・・・後鳥羽上皇が幕府を倒すように諸国の武士に命令した。北条義時追討の命がでて、幕府は窮地に陥るが尼将軍とよばれていた政子が御家人に檄をとばすと武士たちが鎌倉に味方して、幕府が勝利、上皇は隠岐に流される。その後京都には六波羅探題がおかれ朝廷の動きを監視する。

1232年武士が作った最初の法律・御成敗式目(貞永式目)制定

北条時宗の時代元寇がおきる。集団戦法と新兵器「てつはう」(火薬兵器)にに幕府は苦戦するが、台風で元軍が壊滅。幕府の勝利に終わる。
1274年文永の役
1281年弘安の役
しかし、勝利したものの領土が手に入ったわけではないので、褒美がだせない。戦に参加した御家人たちは自腹でまかなっているけど褒美がでないので貧乏になってしまった。そして借金をした。
幕府は御家人の不満をやわらげようと「徳政令」をだして御家人の借金をチャラにするが、今度は金が借りられなくなって御家人の生活はいよいよ困る。そこに後醍醐天皇らの働きかけがあって1333年鎌倉幕府は滅びる。

鎌倉文化
素朴で力強い文化
歌集 藤原定家編集の「新古今和歌集」「小倉百人一首」
随筆 鴨長明「方丈記」、吉田兼好「徒然草」 テーマは無常
軍記物 平家物語(琵琶法師がひろめた、のちに小泉八雲の小説耳無し芳一の題材になっている)
建築 武家造、東大寺南大門、円覚寺舎利殿
彫刻 運慶と快慶の金剛力士像

鎌倉新仏教
浄土信仰系
法然 浄土宗・・・南無阿弥陀仏ととなえる
親鸞 浄土真宗・・・念仏もいらない信じればいい、親鸞は妻帯して子供もいる、悪人正機説、他力本願
親鸞の教えは本願寺に受け継がれ一向宗ともよばれる。
禅宗系
栄西 臨済宗
道元 曹洞宗
座禅を組んで悟りを開くことを重視。武士に保護された。
一篇 時宗・・・浄土信仰系だが、念仏をすでに救われたお礼として唱え、踊り念仏で唱える
日蓮 日蓮宗・・・法華経がただしく、他の経典は間違い、他の宗派はみとめない。



第6章 室町時代
足利幕府と南北朝。地味でわかりにくい室町は実はいくつかの時代を含んでいる。

建武の新政
1334年幕府を滅ぼした後醍醐天皇は親政を開始。手本は醍醐・村上天皇の延喜天暦の治といわれた時代。
さすがに時流にあわず、武士を軽視したこともあって2年でおわった。

武士たちの不満を代表したのは足利尊氏、源氏の名門の出身で、武士の言い分をきいてくれたので人気があった。
武士の不満をうけて幕府をたてようとするが、それには征夷大将軍に任命されないといけないが後醍醐天皇はやってくれないので、新しい天皇を連れてきた。これが北朝の始まりで光明天皇。
実は鎌倉末期から天皇の地位は二つの系統持明院統と大覚寺統があらそっていて、一代ごとに交代で決着していたが、尊氏は持明院統、当然後醍醐天皇は大覚寺統。後醍醐天皇は新しい天皇を認めず、奈良の吉野で政治をする。これが南朝。
1338年尊氏は幕府を開く。政治のしくみは鎌倉とほとんど変わらないけど、鎌倉府がおかれ関東公方のもと関東管領がおかれた。鎌倉の執権にあたる管領とよばれる役職があり、斯波・細川・畠山氏が交代で務めた。その次にえらい侍所の長官は山名・赤松・一色・京極が担当した。地方には守護大名がいて将軍のチカラはあまり及ばなかった。

守護大名たちもそれぞれ勢力を伸ばすために南朝に味方したり北朝に味方したりしていた。
鎌倉を攻め滅ぼした新田義貞は南朝に味方していたよ。
しかし室町幕府の3代将軍足利義満の時代、1392年南北朝統一され幕府は最盛期を迎える。義満は京都の室町に花の御所と呼ばれる屋敷をつくってそこで政治を行った。
中国から倭寇という海賊の取り締まりを頼まれたのを機会に明との貿易も開始、海賊との区別のために勘合という札を使ったので勘合貿易とよばれる。日本からは刀剣や銅。硫黄を輸出、明から明銭や生糸絹織物などを輸入した。
世界文化遺産になっている金閣は義満の別荘として建てられた。当初金箔を塗った豪華な建物だったというが、応仁の乱と戦後の放火で焼失、現在は再建されている。これらの文化を北山文化という。

義満のあとは息子義持が継ぐが43歳でなくなり、16歳の長男も義持より先になくなっていたので、次の将軍はくじ引きひなった。僧侶になっていた義円がえらばれ義教を名乗る。あまり有名でないけど、この人管領から政治の実権をうばいかえし、勘合貿易を再開、大名の跡取り問題にも口をだしていうことをきかない大名は殺害。直属の部隊を編成して軍備拡張。南朝の生き残り後南朝問題に取り組み、関東公方の足利持氏を自殺に追い込んだ。これには足利学校という学問所設立で名高い上杉憲実が一枚かんでいる。吸収を平定し、逆らう公家や神社を処罰、比叡山は焼打ち。やりたいほうだいだったので守護大名の赤松満祐に暗殺される=嘉吉の変。地味な室町でかなり派手な人。
その後は9歳の義勝が継いだが2年後に死亡。弟の義政が8代将軍になる。

義政は有名なダメ将軍で、妻は日野富子だが、乳母くらいの年上大好きで子どもはできず、弟が僧侶になっていたのを還俗させて跡取りにする。そうしたら富子が男の子を生んだ。
ここで義政は「どうせ、おれのいうことなんてみんな聞かないから」と跡取り指名を拒否。これが応仁の乱の元。
1467年 応仁の乱
最初は
足利義視(義政の弟)+細川勝元=東軍
足利義尚(義政の息子)+日野富子+山名宗全=西軍
ではじまったけど、かなり敵味方いりみだれ京の町は焼け野原になり、幕府のチカラは落ちた。

義政はダメ将軍だったけど趣味のセンスは超一流で東山文化の代表銀閣寺を建立。書院造という今の日本家屋に大きな影響を残す建物を建てた。こちらは建立当時のまま残っている。

室町時代の社会は、商人が活躍し、運送業や海運業が栄えた。銀行のような仕事をする酒屋や土倉とよばれる業者もあった。同業者の組合「座」が作られて、権力者への寄付で栄えた。
農村では二毛作が始まり生産が増える、惣とうまとまりで寄合をもって自治や一揆を行う集団になる。
1428年正長の一揆は記録される初めての一揆。馬借(運送業)や農民が徳政令をもとめて起こしたといわれている。
1488年加賀の一向一揆は守護を自殺させ加賀には100年守護が不在だった。
1485年山城国一揆、国人とよばれる地侍たちが農民を団結し、争って戦乱を起こしていた畠山氏を追い出し8年間自治を行った。

室町文化
北山文化、東山文化
能・・・観阿弥・世阿弥
狂言
連歌・・・二条良基、宗祇
浦島太郎・鉢かづき・一寸法師などのお伽草紙
水墨画・・・雪舟



第7章 戦国・安土桃山時代
群雄割拠から天下統一

戦国大名・・・身分の上下もものともせず、実力で領地をひろげる大名
下剋上・・・実力で自分より身分が上の相手にとってかわること。
美濃の斉藤道三は油売りから身をおこし
北条早雲は妹が駿河の名門今川氏に嫁いだのを足掛かりに相模を治める大名になった。
大名たちはそれぞれの領地で独自の法律をつくる、これが分国法、有名なのは甲斐の武田家の「信玄家宝」など、どれも実用的な法律だった。
戦国大名たちは合戦をくりひろげたけど、有名なのは12年間に5度の合戦が行われた川中島の戦い。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が戦った。
戦国大名たちは城を築いてその周りに町ができた城下町の誕生。最初は山城だったけど、平地に天守閣や掘をもった平城もたてられるようになる。お寺や神社を中心に栄えたのが門前町、港中心だと港町、堺の町は港街だけど、町衆が自治を行い、町の周りに掘ももっていて大名と商売したよ。

1543年種子島にポルトガル人の船が漂着、鉄砲を伝える
1549年鹿児島にスペイン人、フランシスコ=ザビエルが来てキリスト教を伝える。ローマカトリック教会はヨーロッパではプロテスタントにおされていたので植民地で熱心に布教していた。日本でもキリシタン大名高山右近や小西行長がいる。

ポルトガル人やスペイン人は南蛮人とよばれたので、これらの貿易は南蛮貿易と呼ばれる。鉄砲や火薬が輸入され、日本からは銀が輸出された、タバコ・カボチャ・ジャガイモ・カルタはこのとき伝わった。

織田信長
尾張国の織田信秀の3男として生まれる。1559年には本家を含め織田家を統一。
1560年桶狭間の戦いで今川義元を破る。なんと2万5千を2千そこそこで奇襲して義元を打ち取った。
1567年には妻の父斉藤道三の仇をうって、その地に岐阜と名付ける。このときの後の秀吉が「墨俣に一夜城」を築いた。
1568年保護を願い出てきた12代将軍足利義晴の子で第13代将軍義輝の弟足利義昭を助けて15代将軍にする。しかし、彼は信長を嫌って他の武将に信長を討つようにいう。武田信玄、朝倉義景、石山本願寺、比叡山延暦寺が敵対して信長は大ピンチに。さらに妹の婚家浅井長政が朝倉について裏切るという行為にでて、本当に大変な局面だったが、一度撤退して、すぐ取って返し、姉川の戦いで浅井・朝倉連合を撃破、延暦寺を焼打ち。しかし武田信玄がでてくると騎馬隊の前に家康が敗走、でもラッキーなことに信玄が病死して武田はひきあげた。
1573年信長は将軍義昭を追放、室町幕府は終わる。
1575年には長篠の戦で武田騎馬隊を破る
1580年には柴田勝家に命じて佐賀の一向一揆を制圧
1576年安土城をつくる。そして天下統一をめざすが、1582年明智光秀の裏切りに会い、殺される=本能寺の変

信長は商業に力をいれた、城下町の税をなくしたり、関所を廃止、座をなくしてだれでも商売できるようにした。
武士と農民をきっちりわけて、収穫期でも戦ができるようにした。

豊臣秀吉
百姓から天下人になった人。
本能寺の変のとき中国で毛利氏を攻めていたが、ただちに和睦して引き換えし山崎の合戦で明智を破る。
このとき信長の長男は父親となくなっていたが、次男・三男は健在だったが、秀吉は長男の子ども三法師をもちだして家督をつがせ自分は後見人に収まる。
その後3男を押していた柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で破る。このとき勝家の妻になっていた信長の妹お市を助けようとするが拒まれている。そのかわりお市の三人の娘を保護し、のちに長女茶々は秀吉の側室、次女の初は京極高次夫人、三女ごうは最終的に徳川2代将軍秀忠の正室となり家光と忠長を生んでいる。
次男は家康を味方につけ、一時は秀吉をおいつめるが、秀吉が次男を抱き込んでしまったため、家康はひっこまざるえなかった。ほぼ天下統一した秀吉だが血筋が悪いので征夷大将軍になれない。そこで足利義昭に養子にしてもらおうとして断られ、関白の近衛前久の養子になって、1585年に関白、翌年には豊臣性をもらって太政大臣になる。

秀吉ははかりやますを統一、田畑を調査して予想石高を記録(太閤検地)、一揆をふせぐため農民や町人寺社から刀ややり鉄砲の武器を取り上げた(刀狩)これで兵農分離がすすみ、身分が固定される。
1590年小田原の北条氏を滅ぼして、東北の諸大名を従えた秀吉は天下を統一する。

その後は中国やインドなどまで併合しようと朝鮮に出兵するも大失敗。これが豊臣政権が短命な原因とされる。

桃山文化
豪華で壮大なスケールの文化
姫路城・・・池田輝政の城で天守閣を備えた世界遺産にも登録されている美しい城
狩野派の襖絵・・・「洛中洛外図」の狩野永徳、狩野山楽
茶の湯・・・堺出身の商人千利休が大成した。
阿国歌舞伎・・・出雲の阿国とう女性が始めたとされる民衆に人気の歌舞伎



第8章 江戸時代
250年の太平は戦いがなくわかりにくいで、呪文

いえやす いえみつ つな あらい
よしむね たぬま てんめい ききん
さだのぶ てんぽう おお みずの
ぺりー なおすけ よしのぶ ほうかん

いややす=家康・・・初代将軍絶妙の配置で以降の反乱を防ぐ
いえみつ=家光・・・3代将軍。参勤交代・慶安のお触書・鎖国の完成で幕府の基礎を築く。
つな=5代将軍綱吉のこと。生類憐みの令をだした悪名高い将軍
あらい=新井白石。老中による政治が行われるようになる
よしむね=8代将軍吉宗。直系が絶えたため紀伊から将軍に就任。享保の改革を行う。
たぬま=老中・田沼意次のこと。株仲間を奨励して商業重視、わいろで悪名高い。
てんめい ききん=天明の大飢饉
さだのぶ=松平定信。寛政の改革を行うが失敗。
てんぽう=天保の大飢饉
おお=大塩平八郎の乱。元幕府の役人であったが、民衆の苦しみをみて立ち上がる
みずの=老中・水野忠邦 天保の改革を行ったが失敗。
ぺりー=アメリカ総督ペリー。黒船で浦賀にやってきて開国を要求。
なおすけ=大老・井伊直弼。不平等条約を結び開国。開国反対派に殺される=桜田門外の変
よしのぶ ほうかん=15代将軍慶喜が大政奉還して江戸幕府が終わる。彼の決断で戦乱がさけられ、列強の植民地にならずにすんだと評価されているよ。もともと水戸藩出身で天皇中心国家に賛成だったといわれている。

関ヶ原の戦い
秀吉の死後幼少の秀頼がいたが、政治はできなかったので、5大老と5奉行が決められ、その合議制で政治が行われることになった。しかし徳川家康が250万石のダントツトップで、他の大老も豊臣家には外様。五奉行は豊臣の家臣から選ばれたが石高がまったくちがう。これでは抑えられず次第に豊臣家はないがしろにされる。これに対して石田三成が対抗するが、他の家臣たり、加藤清正や福島正則らは三成とそりがあわず家康に加担。三成は毛利輝元を担ぎ出し家康と対決する。これが関ヶ原の戦い。三成はがんばったけど人望がなく諸将は勝手にうごき西軍は小早川秀秋の裏切りでわずか1日で負ける。家康の息子秀忠も戦場にまにあわず、父親の不興をかっている。

江戸幕府の仕組み
1603年家康は征夷大将軍になって江戸に幕府を開く。
大名を親藩(徳川家親戚)、譜代(関ヶ原以前からの家臣)、外様(関ヶ原以後の家臣)にわけて、外様は遠方に封じた。将軍家になにかあったときのために御三家をつくり、9男義直を地理的中心地尾張、10男頼宣を木材の生産地紀伊。11男順房を江戸に近い茨城水戸に配置。ちなみに上の男のこは皆なくなっているか、家康に嫌われていたらしい。戦略上大切な場所や金や銀がでるところは直轄地=天領となった。
一万石以上の石高があると大名にして領地を藩とした。これを幕藩体制という。
江戸幕府で一番えらいのは将軍、その補佐は老中たち。とくに重要な政策を行うときは臨時で大老がおかれた。老中には譜代しかなれない。大老には譜代のなかの4つの家系だけがなれる。例外は綱吉のときの柳沢吉保のみ。老中の下に大目付、町奉行、勘定奉行などがおかれ、将軍直属の旗本から選ばれていた。京都を監視するための京都所司代が置かれた。大阪を監視するためには大阪城代がおかれた。

朱印船貿易
家康が行った東南アジアとの貿易、シャムの日本人街に山田長政という人が活躍。

大阪冬の陣、夏の陣
家康は生きているうちに目の上のたんこぶ豊臣家に難癖つけてつぶしてしまおうとする。
国替えを提案したりするが大阪は抵抗、真田幸村らが大坂方で活躍し、一時は勝ちそうになるが、家康が淀殿のいるところめがけて大砲をうたせたので、戦局が有利なのに淀殿が和睦してしまい。結果大坂方は堀を失い、夏の陣で秀頼と淀殿は自害しほろばされた。

禁中並びに公家諸法度
家康は大名のほかに朝廷を取り締まる法律をつくりいいなりにした。

家光
春日局、大奥で有名。
参勤交代の制度を武家諸法度に付け加えた。街道の整備も行った。
慶安のお触書・・・農民に朝から晩まで働き、米でなくあわやひえを食べろとしたひどいお触書

士農工商の身分制度をつくる。農民の暮らしが厳しいので工商より上にしたともいわれている。えた・ひにんという制度もつくり、不満のはけ口にしたともいわれいる。
5人組で5家を仲間とし、どれか一軒でも年貢が払えないといっしょくたに処罰されるようにした。
土地をもつのが本百姓、持たないのが水呑み百姓。本百姓で裕福なものは村方三役といって、庄屋(名主)、組頭、百姓代となって年貢の徴収を受け持った。

島原・天草一揆と鎖国の完成
1637年長崎の島原でキリスト教徒を中心とした農民たちの一揆がおきた。リーダーは益田四郎時貞(天草四郎)。幕府はオランダ(プロテスタント)の協力でこれを兵糧攻めにして鎮圧。キリスト教を危険視する意見が強まり鎖国が行われる。
隠れキリスト教徒を暴くための絵踏、寺請制度でみなどこかの寺の檀家になるようにした。そして寺で先祖の供養をするんだけど、仏教は本当は先祖の供養はしないよ。
また貿易の利益を幕府が独占するため鎖国した、1639年ポルトガル船の来航が禁止され、貿易はオランダ、朝鮮のみ、場所は長崎の出島と決められた。これは1854年まで200年以上続く。

アイヌ・朝鮮・琉球
松前藩はアイヌと交易していたが、条件がひどかったのでアイヌの首長シャクシャインが反乱。しかし鎮圧されてしまう。
朝鮮との交易は対馬藩が行っていた、将軍が代替わりすると朝鮮通信使という使節が江戸を訪問した。
薩摩藩は琉球で高い年貢を徴収したりしていた。琉球からも将軍が代替わりすると使節がおくられていた。

四代将軍家綱の時代、浪人を集めて油井正雪が反乱をおこし、それからは浪人がでないように大名家の取り潰しを減らし、武力による武断政治から学問による文治政治に切り替える。

家綱には子どもがいなかったので家光の4男綱吉が5代将軍になる。綱吉は学問が好きで治世の前半は天和の治とよばれた。後半は男の子どもが生まれないのは動物を大事にしないからといわれ生類憐みの令ををだす。この悪法で彼は犬公方とよばれ、水戸黄門こと水戸光圀も批判している。また栁沢吉保を極端に重用した。銭の質を落としてインフレもおこしている。富士山の噴火や赤穂浪士の討ち入りもこの時代。

元禄文化
綱吉のころの上方中心の文化。町人中心の明るい文化。
文学・・・浮世草子とよばれる小説が人気。井原西鶴
人形浄瑠璃・・・脚本家近松門左衛門
俳諧・・・松尾芭蕉
絵画・・・尾形光琳、浮世絵の菱川師宣

新井白石
綱吉は64歳で亡くなったが跡取りはなかった。家光の孫が6代将軍家宣として即位48歳。3年で亡くなる。
この人が新井白石を登用。間部詮房とともに綱吉否定政治をして正徳の治とほめたたえられる。ついでに皇室の血統を絶やさないための宮家を3から4に増やした、今の天皇はこの4番目の閑院宮出身。

家宣のあとは息子家継が新井白石の後押しで次ぐが8歳でなくなる。しかたなく御三家から次期将軍を選んだが、家康の血が一番濃いということで紀伊藩主吉宗が8代将軍になる。
彼は紀伊藩主になったのも兄弟が早世したからで、ひょうたんからコマな人。
将軍として親政を行い、享保の改革を行い、幕府の財政を立て直した。
足高の制・・・優秀な人物に役職を務める石高がないばあい、在職中にかぎり石高を積み増しする制度
目安箱・・・民衆の意見を吸い上げて小石川療養所や町火消制度を作った。
公事方御定め書き・・・裁判の基準。大岡越前はこの時代の人。
上米・・・大名にも1万石あたり100石の税を課す。
青木昆陽に命じて甘藷(サツマイモ)の栽培を研究させた
部分的に洋書を解禁した。
将軍家の血筋が絶えないように御三卿を設置(田安、一橋、清水)

国学と蘭学
国学・・・日本の古典研究、本居宣長の「古事記伝」
蘭学・・・オランダの医師シーボルトは鳴滝塾で蘭学者を育てる。ターヘル=アナトミアを訳して「解体新書」を表した杉田玄白と前野良沢

家重・・・9代将軍。吉宗の息子で長子であったが言葉が不自由だったという。しかし吉宗が長男相続にこだわった。
家治・・・10代将軍。政治はしないで将棋にふける。老中の田沼意次がほしいままに政治を動かす。政策は重商主義でわいろ(冥加金)が横行した。飢饉や火事、浅間山の噴火などで百姓一揆、打ちこわしがおきたりする。平賀源内はこのころの人

家斉・・・家治の息子がなくなったため、一橋家から家斉が11代将軍として迎えられる。白川藩主として評判だった松平定信が起用され吉宗を手本に寛政の改革を行うも6年で失脚した。かれは朱子学だけを公認の学問として他は禁止、贅沢は禁止、農民は農地に帰れとやったけど、うけいれられなかった。

大御所政治
家斉は子ども家慶に将軍を譲ったあとも自分で政治をおこなったの。で、こういわれる。また妻が40人以上、子どもは50名以上で、この子供たちのために幕府の財政は苦しくなったといわれている。

異国船打ち払い令
18世紀半ばからロシアが通商をもとめてきていた。1792年にはロシアに漂着した大黒屋光太夫を根室に送ったラスクマンが来たけど幕府は拒否。間宮林蔵に蝦夷地の調査を行わせている。
19世紀にはイギリスやアメリカの船がくるようになったので、異国船打ち払い令をだして鎖国を守ろうとした。
1837年には漂流した日本人を引き渡しにきたアメリカ船まで砲撃。批判した蘭学者・高野長英や渡辺崋山を処罰している。

大塩平八郎の乱
1836年天保の大飢饉がおきるが、幕府は米を大阪から江戸に送ろうとしたため、1837年役人であった大塩平八郎が反乱を起こす。

化政文化
家斉の頃、江戸を中心に栄えた文化、皮肉やこっけいを楽しむ文化
戯作(小説)・・・「東海道中膝栗毛」「南総里見八犬伝」
俳句・・・小林一茶・与謝野蕪村
錦絵・・・北川歌麿の美人画、東洲斎写楽の役者絵、歌川広重の東海道五十三次、葛飾北斎の富嶽三十六景
寺子屋で大衆が読み書きそろばんの教育をうける。

水野忠邦と天保の改革
老中・水野忠邦が家斉の没後行った改革。人返し令や上知令で大阪近辺の大名や旗本の土地をとりあげようとして失敗。株仲間の解散もしている。

ペリー来航
1853年アメリカ総督ペリーが浦賀に黒船4隻で来航。捕鯨船の補給をするため日本に開国をもとめる。
幕府は翌年へんじするとして一度かえってもらう。
この騒動のなか家慶が61歳で亡くなる。

日米和親条約と開国
対応がきまらないので朝廷の意見を聞いた。これは幕府より朝廷が上としめしたようなもので愚策だった。
話し合いはまとまらず、当時の孝明天皇は外国嫌いだったので、余計まずい。
幕府は開国しないと武力がくることがわかっていたが朝廷は危機感がなかった。
まとまらないままに幕府は翌年ペリーと日米和親条約を締結。下田、函館をひらき鎖国は終わる。
1858年アメリカ総領事のハリスが日米修好通商条約を求め、井伊直弼は反対をおしきって締結。神奈川など5港をひらく、また治外法権と領事裁判権をみとめてしまったし、関税自主権が放棄されているひどい条約だった。
同じような条約をイギリス・オランダ・フランス・ロシアと結ばされた。

安政の大獄
井伊直弼が反対派を弾圧、吉田松陰や橋本佐内を処刑。
吉田松陰のは長州藩出身。松下村塾で若者に学問を教えていた。門下には高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文がいる

将軍跡継ぎ問題
13代将軍家定は病弱だったので幕府は14代将軍候補を選ぶ、興は葉紀州の慶福と水戸藩から一橋に入った慶喜。
井伊直弼が慶福派だったので14代将軍は慶福が次いで家茂となる。

桜田門外の変
大老井伊直弼が元水戸藩氏に殺害される

開国の影響
生糸や茶がしなぶそくになり、不満が高まる。
尊王攘夷運動に発展。
幕府では公武合体論が唱えられ、家茂の正妻に孝明天皇の妹和宮が降嫁。

生麦事件・・・薩摩藩の行列と行き会ったイギリス人が無礼打ちにあう。
薩英戦争・・・イギリスが報復として薩摩を攻撃。攘夷論が無謀だとわかり、薩摩が方向転換。
下関事件・・・長州藩が同じく外国を攻撃してコテンパンになる。
薩長同盟・・・攘夷論が無謀とわかった仲の悪かった両者が同盟。このとき活躍したのが坂本竜馬。

1866年慶喜が15代将軍就任。時代が倒幕にうごいていることを感じ、1867年大政奉還で国の内乱をさける。



第9章 明治時代
近代日本の夜明け。鞍馬天狗のセリフじゃないけど、鎖国でとりのこされていた日本が一気に中央集権化を進め、不平等条約を撤回。大国相手の2つの戦争に勝利するという類をみない奇跡の成長を遂げる。

明治政府の方針と構成
孝明天皇の後を引き継いだ明治天皇はまだ中学生くらい。実際の政治は幕府を倒した藩の人たちが中心だった。
主要メンバーは
公家の岩倉具視、三条実美
薩摩出身 大久保利通、西郷隆盛
長州出身 木戸孝允、伊藤博文
土佐藩出身 板垣退助、後藤象二郎
肥前藩出身 大隈重信
維新の三傑は 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允

王政復古の大号令・・・天皇が政治を行うという宣言。
戊辰戦争・・・幕府はなくなっても徳川家は日本一の地主として存在している。身分はないけどお金はもっている。明治政府は旧勢力を巧みに挑発して戊辰戦争に持ち込んで闘う。京都鳥羽伏見の戦いに始まり江戸城の無血開城(勝海舟が活躍)、会津藩での戦い(白虎隊)、最後は北海道の五稜郭で土方歳三や榎本武揚らが戦うが敗れる。政府軍には天皇がいたから天皇に逆らうのが抵抗あるひとは慶喜を筆頭にかなりいたらしい。

五箇条の御誓文
明治天皇が神々に誓う形で発表。会議を開いたり、人々の願いをかなえる国にしようとしたが、一方で五榜の掲示という一揆やキリスト教の禁止など幕府とあまり変わらない内容の立札が民衆にむけてだされた。

富国強兵・・・明治政府のスローガン。国を豊かにして兵力に力をいれて国力をあげようというもの。そのために殖産興業をおこない、1872年には官営模範工場として富岡製糸場がつくられる。20世紀初頭に生糸の生産輸出世界一になるが徐行の労働は一日15時間で給料は安く、泊まり込みで家に帰れないという厳しいものだった。

版籍奉還・・・1869年実施。戊辰戦争の後、藩主の力を削いで中央集権を目指して行われた。ただしいきなり藩を解体はできず、土地と戸籍(人民)を天皇に返すとした。

廃藩置県・・・1871年実施。藩の代わりに府や県を設置、知事や県令は明治政府の任命とした。これにより戦国時代から続いてきた地方分権の時代が終わる。

遣欧使節団
廃藩置県の後大隈重信の提案で、岩倉具視をリーダーにアメリカイギリス、フランス、ドイツ、ロシアを訪問。この時留守番役をした西郷隆盛や板垣退助とは溝ができる

学制1872年小学校で6歳以上の男女すべてが義務教育
目的は軍事だったが、国民の教育レベルを上げるためだった。

地租改正・・・1873年施行。土地所有者が土地の値段(国が決める)の3%を現金で払う。お金で集めのは初めて。土地には地券が発行されて、所有の証明になる、税率は反対一揆で2.5%に下げられる。

徴兵令・・・1873年。満20歳以上のすべての男子に兵役の義務をつけた。

文明開化・・・政府指導のもとで欧米の文化が積極的にとりいれられたこと。牛肉を食べ洋服をきる人、西洋風の建物、ランプやガス灯の設置、1872年には鉄道開通。太陽暦が用いられ、郵便制度も整う。

領土確定・・・蝦夷地を北海道とあらため、北海道開拓使を置く。屯田兵が募集され開墾が行われるがアイヌ人たちの生活は圧迫される。1875年にはロシア帝国と国境の確定を行い、樺太はロシア、千島列島は日本となる。琉球は清との二重統治になっていたが、1874年台湾に漂流した宮古島の島民が台湾の原住民に殺され、日本は台湾に出兵。琉球人が日本人と主張をみとめさせた。1879年600名の軍隊を派遣して琉球王国を滅ぼし沖縄県を置く=琉球処分。

征韓論と板垣と西郷
朝鮮に国交回復を求めるが拒否され、板垣退助らが武力で朝鮮を併合すべしとの意見があった。これに対して穏健派は西郷隆盛だった。しかし遣欧組が返ってくると今の日本に朝鮮進出は無理と判断され、西郷と板垣は明治政府をでる。板垣は政府を藩閥政治と非難して民選議院設立建白書(1874年)を提出、立志社をつくり自由民権運動を組織する。西郷隆盛は鹿児島に帰り、他の士族の反乱にも加担しなかったが、1877年門下の士族たちが政府の武器庫を遅い、やむなく反乱これが西南戦争。8か月で西郷の自害で終わる。
朝鮮は1875年日本海軍が朝鮮の江華島付近で砲撃され、報復のため江華島を占拠。翌年に日朝修好条規を締結して李氏朝鮮を開国させた。

板垣は1875年に大阪で全国的な組織愛国者を結成。一旦解散するが1880年には国会期成同盟に発展。8万人以上の署名をあつめて国会の開設と憲法制定を要求。このころ北海道開拓使の汚職があり、政府も10年後に国会をひらくことを約束。板垣はそれにそなえて自由党を結成。大隈重信は立憲改進党を作る。自由党は天皇も否定している過激集団として過激な運動から事件を引き起こし政府の弾圧をうけて解党することになる。

憲法制定準備・・・伊藤博文をヨーロッパに派遣、伊藤は国王の権限が強いドイツの憲法を参考にする。
内核制度・・・国会開設、憲法制定前に内閣制度がつくられ伊藤博文が初代内閣総理大臣になる。
他に外務、内務、大蔵、司法、文部、農商務、逓信、陸軍大臣、海軍大臣、宮内大臣。
中身はまだ藩閥政治ではあった。

大日本帝国憲法・・・1889年、アジアで最初の近代的憲法として発布。形式は天皇が国民に与えるというもの。天皇が軍の統帥権をもち、国民は臣民。立憲君主制の憲法で、天皇は現人神だった。

第1回衆議院議員選挙と帝国議会
国会は衆議院と貴族院の二院制で、選挙は衆議院のみ、選挙権は直接税15円以上納める25歳以上の青年男子。国民の1.1%しか投票できなかった。

近代国家の形を整えた日本は不平等条約の撤廃に乗り出す1894年領事裁判権の撤廃に成功。

日清戦争
1894年、朝鮮で東学という宗教を信仰する人に率いられた農民が反乱をお越し、朝鮮が清に支援を要請。日本も朝鮮の領事館保護の名目で出兵、内乱終結後も清と日本の軍隊が朝鮮にとどまり戦争状態になった。列強が見守る中日本の軍隊が清を制圧。下関で講和条約が結ばれる。内容は
清が朝鮮の独立をみとめる
清は遼東半島を日本に割譲する。
清は台湾を日本に割譲する。
清は澎湖諸島を日本に割譲する
清は賠償金2億テール(3億円)を日本に支払う。
賠償金は八幡製鉄所建設に使われる。
そして以前おしつけられた不平等条約を清に認めさせる。
遼東半島は満州をねらうロシアがドイツ・フランスとともに日本にはたらきかけ、清に変換させる=三国干渉
以後、日本はロシアと対立することになる。

1899年清で義和団という宗教団体が清を助け諸外国を滅ぼすという運動をお越し義和団事件となる。
1900年には西太后がこれにのって欧米諸国に宣戦布告、列強の反撃にあい北京議定書をおしつけられる。ロシアはこのとき満州を占領するが日本がイギリス・アメリカと抗議して撤兵させている。

このころ伊藤博文が立憲政友会を組織。保守的な政党である。

1901年八幡製鉄所を建設
1902年日英同盟、ロシアとの利害から成立。どちらかが他の国一つと戦うときには中立を守り、二つ以上の国を相手にする場合はお互いを助けて参戦する。というもの。

1904年日露戦争
日英同盟と他の列強にも根回しして参戦しないようにしたうえで、短期決戦で有利な講和条約を結ぶという戦略もある戦争だった。海軍による旅順攻略には失敗するものの、陸軍が奮闘、さいごは日本海でバルチック艦隊を破って講和にもちこんでいる。仲介はアメリカ大統領セオドア=ルーズベルト、ポーツマスで講和条約を結んだ。南満州鉄道の一部と南樺太を手に入れたが、賠償金はなかった。勝ったと思っていた国民は不満で暴動を起こした。
日露戦争時には戦争に反対したひとたちもいた、歌人与謝野晶子、キリスト教主義の内村鑑三、社会主義の幸徳秋水
社会主義者、無政府主義者はのちに政府を脅かすものとして大逆罪をでっちあげて処刑された。

足尾銅山事件・・・急ピッチですすむ産業育成によっておこった公害、衆議院議員田中正造が天皇に直訴しようとするが狂人と片づけられた。

清とロシアに勝利した日本は韓国への支配を強め初代韓国統監府に伊藤博文がなる、しかし、彼は韓国の青年に暗殺され、皮肉にも伊藤がいなくなり韓国併合論の反対がなくなって、1910年韓国を併合する。
1911年ポーツマス条約で活躍した小村寿太郎がアメリカに日本の関税自主権をみとめさせる、他の国もこれに続いた。

辛亥革命・・・1912年、日本で中国同盟を設立していた孫文が、清朝からの独立を宣言した省をあつめて会議を開き臨時政府をつくる。これがアジアで最初の共和国で、これを辛亥革命と呼ぶ。鎮圧にきた袁世凱が清をうらぎり清は滅びる。


第10章 大正~平成時代
二つの世界大戦、頂点と挫折、そして奇跡の復興

大正時代の初まり
明治天皇は1912年61歳で死去。兄がなくなっていたので第3皇子の大正天皇が即位。知的障害があったといわれているがわからない。病弱でわずか15年で亡くなっている。
大正デモクラシーがあった。

第一次護憲運動
当時立憲政友会と藩閥が交互に内閣を担当していたが、長州出身の桂太郎が議会を無視して政治をすすめようとして政治家や知識人の反発をまねき、新聞報道などもあって尾崎行雄らによる第一次護憲運動がおこる。桂内閣は53日で総辞職した。

民本主義・・・東京帝国大学の吉野作蔵が唱えた。政治は国民の幸福のためにやる、普通選挙を実現して国民の代表が政治をするべきという考え方。
天皇機関説・・・東京帝国大学の憲法学者美濃部達吉が主張。国家は法律によって人格を与えられたものであり、国家の機関がその意思決定を行う。日本ではそれは天皇であるというもの。軍部独裁のとき邪魔になり弾圧されている。

第一次世界大戦
バルカン半島でオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけにドイツ、イタリア。オーストリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商で戦った。
日本は日英同盟をたてに中国に進出。「二十一か条の要求」をつきつけてドイツの権益を引き継ぐなどしている。
大戦の新兵器は飛行機、戦車、毒ガス、潜水艦。また軍隊が戦うだけでなく、民間人が巻き込まれる総力戦であることが大戦の特徴。

1917年貧しい上に戦争による犠牲を強いられていた人々がレーニンの指導のもとロシア革命をおこし、ロシアは世界初の社会主義国ソビエト社会主義共和国連邦になる。ロシアは戦線を離脱。
社会主義国を恐れた他の国がシベリアに出兵するが、このとき米の買い占めが起きて起こった主婦が米屋を襲う米騒動がおきる。
この騒動の責任をとって内閣が総辞職、変わって政友会の原敬が内閣を組織、彼は薩長土肥の出身でも家族でもなかったので平民宰相とよばれよろこばれた。政策はそれほど民衆にやさしくない。

ドイツは無制限潜水艦作戦でイギリスを包囲して貿易をさせないようにしようとするが、これで被害をうけたアメリカが怒って参戦、これでドイツの負けが決まり、ドイツ皇帝が国外逃亡、ドイツは共和国になる。

1919年ベルサイユ条約
ドイツには賠償や割譲、軍備の制限など厳しい条件がかかった。

3・1独立運動、54運動
韓国で日本からの独立を目指す運動、日本に鎮圧された。

国際連盟・・・アメリカのウィルソン大統領がよびかけて国際平和のために組織された。加盟国42か国でスタート。しかし第二次大戦は阻止できなかった。

大戦後の日本は戦場にならなかったのに輸出は好調で成金があらわれる。しかしヨーロッパの復興とともに過剰投資のつけで不景気になる。このころ労働運動が盛んになり1920年にメーデーが開かれる。小作料の引き下げを求める小作争議も起きる、新平民として差別をうけていた人たちを救う団体全国水平社が組織。日本共産党もこの年結党。
女性解放運動・・・女性の選挙権をもとめた、平塚雷鳥、市川房江

関東大震災
1923年9月1日関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲う。火災も発生し10万人を越える死者をだした、このとき朝鮮人が火をつけたデマがとんだ。

1924年普通選挙をもとめて護憲運動が活発化、1925年25歳以上の成年男子による普通選挙法が制定されるが、同時に治安維持法も制定

1929年世界恐慌、各国はそれぞれの経済対策をとる

1930年ロンドン海軍軍縮会議で条約に調印したところ、軍が統帥権の侵害といってきた。このころから軍部の暴走がはじまり、日本の国のために力をあわせるのではなく、自分の組織の利害で動くようになる。
満州事変や日中戦争、アメリカへの宣戦布告など、軍部の暴走で自分の利権拡大を狙ったもので、戦略がないため陸軍と海軍の連携もなく、戦争終結のシナリオもなく第二次世界大戦に突入。敗戦を迎える。

GHQの占領下で民主化と東京裁判が行われる。裁判は公正とはいえなかった。
普通選挙法(20歳以上男女)と労働組合法、労働基準法制定、日本国憲法もGHQ主体で作られる。1946年11月3日発布、1947年5月3日施行。国民主権、基本的人権、平和主義が特徴

1945年国際連合が設立、安全保障理事会が設けられる。ソ連とアメリカの対立(冷戦)
1950年朝鮮戦争、ソ連とアメリカの代理戦争的であった。日本に特需をもたらす。また再軍備の道をひらいた。
1951年サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約。占領が終わり独立を回復。アメリカ軍が日本に駐留する。
1956年日ソ共同宣言。これで日本の国連加盟をソ連が承諾して日本は国連に加盟
1950年代半ばから高度経済成長がおこる、1968年にはアメリカに次いで世界2位のGNPとなる。一方で公害が発生していた。
1968年小笠原諸島返還
1972年沖縄返還
北方領土は未解決
1973年石油ショック、これで経済成長が一時ストップした
1972年日中共同声明。これで中華民国とは国交断絶になる。
1978年日中平和友好条約、中国の国連加盟を助ける。
1965年日刊基本条約

貿易摩擦・・・加工貿易の日本から輸出が多くなりアメリカが赤字になって起こった。現在はない。
冷戦の終結
1985年ソ連の共産党書記長ゴルバチョフがペレストロイカという改革を実施、グラスノスチという情報公開を進め、ソ連とアメリカが歩み寄り、1989年ベルリンの壁が崩壊。ソ連とアメリカは冷戦終結を宣言。その後ソ連が崩壊し独立国家共同体になる。しかし戦争は続いている。

バブル経済・・・1980年代に日本の土地価格が上昇し、それを担保に銀行が多額のお金を貸しつけて起こったこれがバブル経済。しかし本来の価格より高くなっていたためその後価格がさがり貸し付けが焦げ付いた、1991年ごろバブル経済は崩壊して失われた10年になる。

現在の日本の課題
少子高齢化
年功序列、終身雇用の中流社会から成果主義、能力主義の格差社会が到来しつつある。
世界規模の環境問題
中国、台湾、韓国、北朝鮮との関係
凶悪犯罪の増加
天文学的な国の借金


読むだけですっきりわかる日本史 (宝島社文庫)

読むだけですっきりわかる日本史 (宝島社文庫)

  • 作者: 後藤 武士
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2008/06/03
  • メディア: 文庫



タグ:後藤 武士
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0