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14歳の君へ―どう考えどう生きるか [子育て]

著者は中学生向けの哲学書「14歳の哲学」の著者で、専門用語をつかわず日常の言葉を用いて哲学するとはどういうことかを書くのに定評がある人。毎日中学生新聞の連載と、同紙の廃刊以降の分は描き下ろし。14歳の哲学をエッセイ風に書いたと著者はいっている。

はじめに 14歳の君へ
生きているのがつらいと感じるのはある意味では正しい。生きにくい時代だから。
大人たちも困ったものだと感じているんだ。どうしていいかわからないだ。
考えてみよう、なぜ人は生きてゆかなければならないのか、生きてゆくためなら、悪いことをしてでも生きてゆければいいのか。
身近な例ではいじめだけど、いじめる方は悪い。でもいじめられるのがつらいからいじめる方になるなら、自分の心が悪く不幸になる。いじめられれば心が傷つくけれど、自信をもってほしいのは決して悪いことをしていないということ。悪い人が良い人を傷つけることはできない。良い心でいることが一番強いこと。
人が生きていくのは良い人生を生きるため、自分にとっての良い人生、幸福な人生を生きることが総ての人生の目的。
悪い心でよい人生をいきることはできない。だから悪い心になったとき、人は生きる目的を本当は失っている。それに気がつくのが怖くて大人たちは適当に悪いことをして、悪いことをしている自分をごまかしてなんとなく生きている。
本当に幸福な人生を行きたいと願うなら、死への恐怖と対面しなければならない。いますぐでなくてもそれは必ずやってくる。

Ⅰ本当の自分本当の友達

友愛
友達にどうして好かれたいのか考えてみよう。
どうして人は、人に好かれるとうれしくなり、嫌われることが嫌いのか。
人にすかれたくてあれこれしていると疲れるよね。それは自分が本当の自分じゃないから、自分が自分を認めていないので、人に自分を認めてもらおうとしているから。でも本当の自分を認めてもらわないと意味がない。
人に好かれようとするより、人を好きになろう。それだけで自分に自信がわいてくる。人に好かれるのは自分じゃどうにもできないけれど、人を好きになるのは自分でできるから面白い。そうやって自然にふるまっている人の方が魅力的だ。
好きになった相手に嫌われるのは悲しいけれど、自分で自分を認めていて、自分に自信があるなら嫌われたって傷つかないはず。
君を好きになってくれる人と同じだけ君を嫌いな人もいると思っておこう。理由なんかなくても好き嫌いがあるもの。ピーマン嫌いなのと同じこと。だれからも好かれるよりもウマの合う友達が一人いるほうがずっといい。
君も優しい人や正直な人を友達にしたいよね。そうなら君がそうならないといけない。
心底困ることは君たちはまだないから、友達にはその場の楽しさを寂しさの解消しか求めていないだろう。本当の友情のすばらしさを知るのはこれから。
一番素晴らしいのは誰でも好きになることだけど、それは難しい。隙に慣れない人は認めてしまおう。ピーマンが嫌いでもピーマンの存在は消せないし、認めるように、嫌いな人の存在も認めて放っておこう。それが愛なのだ。愛とはうけいれることなのだ。
誰かの存在を拒んでいる自分、誰かを憎んでいる自分はすごく苦しい、憎しみで苦しみたくないなら愛するしかない。

個性
自分の好きなことをするのは、自分らしいとは違う。これを勘違いしているひとは「自分探し」で人生を浪費する。
本当の自分は今ここにあるのだから探しに行く必要はない。
自分でどうこうしようとしなくても、自ずからその人はその人であるところの人になる。そういう自分がすべての人にある。自ずからというのは自然とそうなるということ。絵をかいても感じ方もどうしても自分はこうなるというのが誰にもあるはず、それが個性。
個性とは他人がそれを認めるもの。自ら求めるものではない。
自分らしくを求めることが自分を自分らしくなくしていることを考えてみよう。

性別
男や女の違いは肉体の違いで、自然がそうしたものだ。
男らしさや女らしさは社会がきめたもので、そんなものだと笑っていればいいし、あわせてもいいし、さからってもいい。
男か女かの違いは骨にのっかている皮の部分だけで、人間はなぜ死ぬかなどという本質的な問いには関係ない。
男女差別があるとかいうひとは、差別を外にみている。本当の差別はその人の心のなかにあるのに。
男女にこだわることで自分を不自由にしているのに社会に自由を要求しても無理。
女は男はという主張は無理がある。だってすべての男または女の意見がおなじということはありえないから。その人の意見でしかない。
総ての人に共通する本質的なことだけを考えて語ることで本当に豊かな男女関係も開けるはず。

意見
ほとんどの人は自分の意見は自分がそう思うから正しいと思っている。でも「本当に正しい」とは誰にとっても正しいことだ。
ほとんどの人は自分の立場や都合や好き嫌いで主張する。そんな意見をいくら主張しあってもうまくいくはずがない、必要なのは正しい考えだ。
もし本当に正しいことを知りたいと思っていたら、意見を否定されても腹はたたない、どこが正しくないか考えてさらに正しい考えを知ろうとするから。君の目的は自分の意見を主張することでなくて、正しい考えをしることだから。逆に自分の意見が自分の意見だから正しいと思っている人は、本当は自信がないので、余計に大声で主張する。
正しい考えは数学の答えのように考えそれ自体が正しいものだ。
正しい考えにたどり着くには、そう思う前提にさかのぼってかんがえればいい。
そして誰が考えてもそうであることは、大勢の人が思っていることとは違う。大勢の人が1たす1は4だと思っていたって、そうはならないように。


Ⅱ考えれば知ることができる

勉強
勉強が面白くないのは、なぜ勉強しなければならないか納得できないから。でもそれを考えるのはただいい成績とるより本当の勉強をとらえているかも。
勉強するのは賢い人間になるため。将来いい生活をするためではない。
勉強ができるのと賢いのとは違う。暗記をしても賢くはならない。なぜそうなるのかを自分の頭で考える、想像してみるのが大切で、自分で考える勉強は面白い。考えると知ることができて、知ることの喜びと賢くなる実感が人を夢中にする。
人間が動物から分かれて知性を持った瞬間から「学問」は始まって、学校の勉強はその素晴らしい学問の一端にふれること。
テストでは唯一の正しい答えが必要だから、今の学校の勉強法で勉強をおもしろいと思う人が少ないのはしょうがない。学校の勉強は勉強として、自分一人で考えることの面白さを追求するのがいい。本を読むのがいちばんいい。
もちろん、勉強よりスポーツや手先を使う方が面白い人はいるだろう。好きな道をいくのがいいが、どの道でもそれを本当に知るためには自分で考えて自分のものにすること、それは同じ。

歴史
歴史の面白さを知るには覚えるという姿勢は捨てること。
これまで地球上に生きて死んだすべての人間について、自分だと考えてみよう。ナポレオンや信長の気持ちを想像してみよう。過去のことを想像する面白さがわかるだろう。
過去のすべては現在の自分につながっている。たまたま自分は自分であるだけで他のようでもありえた。他の誰かである自分を想像することが人間にはできる。この想像力を使うと、歴史は面白い。
実は歴史なんて、過ぎ去って存在しないもので、確かめることはできない。書かれたものはあるが、言葉は簡単にウソをつけるからあてにはできない。歴史に本当はない、客観的な存在ではない。だから歴史とは真偽を求めるものではなく、想像するもの。
現代史はまだそのことを記憶していたり書いたりしたひとがいる生き生きとしたものだ。気をつけなければいけないのは、その出来事を経験した人は自分の立場からしか言えないということ。その人がそう思っていることだけでは歴史ではない。個人としての思いや立場を超えて、人間全体としての歴史を見るのは難しいけれど、そうするからこそ、人間の歩んできた全歴史は自分に等しくなる。
特定の個人的立場や感情的思い込みから歴史をきめつけるは不自由でつまらない。歴史には想像しても想像しきれない豊かさがある。考える自由を手に入れて豊かさを味わおう。

社会
社会科の社会と大人の言う社会は、どちらも大勢の人間の集まりから生じる事柄や出来事のこと。
複数の人間があつまると、上下関係や利害関係、もっと微妙な感情の関係なんかがおこる、この関係を社会といってもいい。学校も社会の一つ。わずらわしくて面倒でも、お金を稼いで生活するためには社会にでてゆかなければならない。
大人も勘違いしているだんけど、実は社会はどこにも存在していない。それは単なる人間の集まりだから。
生きる生きないは完全にその人の自由。社会の規制や制約に従うのも自由。もともとは集まって暮らす方が便利だったから集まって規則も制約もそのためにつくったものだ。
自分は自由なのに、不自由なのは他人のせいと勘違いして他人を責める、それが今の大勢の大人のありよう。でも社会なんてどこにも存在しない。一人一人の人間が善くなる他に社会がよくなる方法はない。

道徳
道徳とはわかりきったようなあれこれを、今更のように繰り返してその通りやっていくのが「よい人」ととくもの
あるいは「うるさい決まり」と思っていないか。
大人も道徳とは自由を規制する不自由な決まりで、そんなものより「個性を大事にして自由にいきろ」とおもっていたりする。でも道徳は「どうやって生きるのか」を考えること。
人間は「よい」と思っていきている。「よい」を好きにいいかえてもいい。人間は自分の好きなこと(よいと思っていること)をするしかできないようだ。
しかし、それでは「よい」と思ってやったのに悪いことだったということはないだろうか。善悪の問題は難しいのでたいていの人は自分で考えずに好き嫌いや、人の決めた善悪にしたがって生きる。これが普通にいわれている道徳だ。
でも本当の道徳は決まりじゃなくて、善悪とはなにか、本当にじぶんに「よい」はなにかを考えることだ。
法律は善悪じゃない。善悪をつきつめるのは大変だから法律を作っているだけに過ぎない。
誰かがきめてくれた善悪に従って生きるのは楽だけど、そんなものは信じられない。大変だけれど自分で考えて本当に良いことか悪いことか判断して行動して生きていかなければならない。そうしなければ自由には生きられない。


Ⅲ君は「誰」なのだろう

戦争
平和と戦争なら平和がよくて戦争が悪いと思うだろう。
でも戦争があるから平和があるわけで一方だけを絶対だと思うは間違い。人間の考えは立場や思想によって全然違う。でもそれは本当の考えではない。いいか悪いか賛成か反対かでは戦争とは何なのかを見失う。
人間の歴史は戦争の歴史。すべての戦争は人間の集まり(共同体)によって起こされる。しかし共同体というものは人々の考えの中にあるのであって、物のように存在してない。共同体は集団が結束しやすいように人間が作ったもの。
人間はある共同体に属する自分が自分なのだと思っている、わかりやすいし安心するから。でも共同体がなくても君は存在する。
共同体という作り事ももつもの同士が利害や名誉をかけて争い、共同体を自分だと思い込んでいる人は冷静でいられなくなる。
しかし戦争それ自体に正しいも間違っているもない。だって共同体という勘違いでおこるから。
さて、君が戦争にまきこまれたらどうする?どう行動する。戦争に反対したり、戦争に加担するのは簡単だが、そもそも戦争とはなにか、なぜ人は戦争するのかを考えていけば、考えるのをやめられなくなる。それは賢くなることだ。

自然
自然保護は自然破壊の裏返し、だってそもそも人間は自然の一部で別のものではないから。現代の人間は自分が自然の一部だと忘れている。生きているのは自分の意思ではない、自然は人間の意志を超えている。それを忘れると人間は自然を支配しようとする。
自然とは別に自分の命だけは守りたいのでは、自然を守ろうという考えは限界があるだろう。
死ぬのが嫌でいつまでも生きていたい人間の欲望が、臓器移植やクローンの不気味な世界を作り出す。
人間は自然だが、人間の欲望は不自然だ。でもその欲望を生み出す脳もやっぱり自然が作ったものだ。この不思議。ここから目をそらさずにいるだけで、なにが自然でなにが不自然かわかるようになるはず。
これから始まる生命技術の時代。生きているのはどういうことか、何のために生きるのか考えるとき、生命は自然が宇宙がつくった神秘であると思い出すといい。

宇宙
科学は観察と実験によって天体のさまざまな法則を見出した。しかし、なぜ天体はその法則なのかとう問いには答えることはできない。究極の問いは「そもそも宇宙なんてものが存在するのはなぜなのか」
科学は宇宙と自分をまったく別物とすることで成立している。そうでなければ観察・実験できないから、しかし自分は宇宙の中にいるのに自分と宇宙を別物にできるわけがない。宇宙とは何かを考えるならそれは「自分とは何か」を考えなければならない。
宇宙を知るには宇宙にでかけるのではなく、自分というものの不思議について考えればいい。有限である自分が無限を考えることができるのだ。
内的宇宙は冒険は宇宙の冒険よりはりかに魅力的だ。自分が生きているということは本当にすごいことだ。

宗教
人間は神を必要としている。生き死にの意味をもとめたり、苦しいときの救いを求めたり、しかし必要とは別に神は存在しているのだろうか。
一神教の紙は人間界を超越した存在なので、それが本当に存在しているかどうかは人間にはわからないはず。わからなないけど存在してくれないと困るから無理にでも「信じる」そうすると狂信や盲信になって戦争のもとになる勘違いが発生したりする。
多神教は神や仏を人間界とは別のところに想像したりしない、人間が存在するそのままが神であり仏であるのだから、無理に信じたりする必要がない。自分が生きているのと同じように認めればいい。
自分が存在していることが、それ自体が奇跡的で絶対的な出来事。
多神教は自在で寛容。動物や植物も魂だから大事にする。日本人はこの典型で、クリスマスのあと除夜の鐘をきいて神社に初もうでなんてしてしまう。一神教の人は一つの神を信じるのは自分の命をかけるのと同じだったろう。最近は少し違ってきているけど。
信じるとう宗教はそろそろ終わりにする時代だろう。人類はそれなりに賢くなっている。宗教自体は終わりはないだろうと思うけど。
苦しくて助けをもとめたくても神がいなかったら、自分を信じよう。でも自分も神も仏もあまり違わない、この宇宙に存在する奇跡なんだ。

ⅳどう考え どう生きるか

言葉
言葉を交わしてわかる。
本をよんで情景をおもいうかべれる。
これは言葉の力。
人は言葉から意味をとるけど、意味ってなんだ、どこにある。
辞書にはないよ、意味を引いても言葉が書いてあるから、その言葉の意味をひかなくちゃいけなくて、意味そのものにはたどりつかない。
言葉の意味を決めたのは誰だ。あるものをその言葉で呼ぶときめたのなら、言葉の意味はモノより前に存在していたことになる。言葉の秘密は世界成立の秘密なのだ。
言葉は見えたり触れたりする物質的存在ではないから時空を超えていまここに存在する、だから「わかる」。
言葉こそが世界を作っている。しかし現代人はそれを忘れて言葉を道具だと思っている。でも人間がつくったわけではない言葉を人間が支配できはない。言葉が人間を支配しているのだ。
正しい言葉を話すひとは正しい人だし、くだらない言葉を話す人はくだらない人だ。その人の話す言葉によって君はその人を判断する。正しい人と思われたくて正しい言葉話すひとは行動が一致しないから嘘をついているとわかる。言葉がウソをいうのではない。その人がウソをいうことで、言葉はやっぱりその人の本当を示す。
人生を大事に生きたいと思うなら、言葉を大事に使うこと。
何百年も前に書かれた言葉が残っていて今それをよんでわかるというのは言葉の奇跡。だから古典をよみましょう。

お金
働いてお金を得て生活する。昔はお金はものを買うための手段だった、でもとっておけるようになったので、それはただ持つだけのお金をもつようになった。
豊かになった社会では普通に働けば生きる為に必要なお金は手に入るので、残ったお金は贅沢に使える。贅沢を楽しむためにお金が欲しくなり、お金が魅力的にみえるようになる。もはや生きるためのお金を働いて得るのとは違ってきている。
それどころかお金それ自体が人生に目的になっている人もいる、これはお金がただの数字になったことも大きい。必要なのはコンピュータの操作だけ。でもこれは働いているといえるのか?いったい何のために何をやっているのか。お金に狂わされている人はただひたすらお金がほしくていくらあっても満たされることはない、億万長者でもお金に狂わされた人生がいいだろうか。
生きるための手段であるお金が生きる目的になってしまったから悲喜劇がおこる。お金なんて紙や金属のかけらで価値があるものじゃない。人間が価値を与えているだけなんだ、だから本当に大事なものは買えない。
人生に大切なもの、価値ある者は自分の中にある。あとはそれに気が付くことだ。
自信がなくなったら自問してみよう。「私は、食べる為に生きているのか、生きる為に食べているのか。生きるためなら、何のために生きるのか」

幸福
将来の夢はなりたい職業とかだけど、人生の目標とは違う。
人生の目標は人によって違わない、それは「幸福になること」
幸福は職業や、お金ではない。それはその人の心だから。外からみた形ではないから。
他人からどうみえようと自分の幸福とは関係がない。幸福を他人と比べられると思うことで人は不幸になる。
自分を認め、他人をねたまず、何かを誰かのせいにしない、そのまま受け入れる。そういう心が幸福な心。
外からやってくるものを受け止めるのは君の心なので、幸福も不幸もすべては君の心次第。
将来の夢をもつのはもちろんいい。でも将来の夢を失っても幸福になるのをあきらめなくてよい。
今自分が不幸だと思うなら、すぐに幸福になることができる。幸福になるという目標はいまここで実現できることに気が付いたとき、人は本当の幸福を知る。

人生
人生とは生きていることそのもの、将来像ではない。いつ死ぬのかわからないのだから。
生きているものは必ず死ぬ。死ぬとはどういうことかは生きているものには絶対にわからない。
生きている不思議に気が付くと、時間の不思議、宇宙の不思議、存在の不思議にきがついてしまう。将来像なんてつまらなくなっちゃう。
本当の人生とは、人は必ず死ぬという事実をしっかりと受け止めて生きていく人生。ウソの人生は人が必ず死ぬという事実から逃げて、ごまかしながら生きていく人生。ごまかしていても本当はうそだとわかっているのに。受け止めてしまえば怖いものはないのに。
不思議をしり、しっかりとその意味を考える人は賢い人として人生を本当に生きることができる賢い人になれる、それは面白いことだ。
考えないのは動物同じだし、考えなくても死の不安を知っている人間は動物より不幸だ。そのため楽しみを求めては飽きる。
不思議を知り、考えることを知っている人は飽きることをしらない。考えることにおしまいはない。大変だけど、この面白さを楽しむことが、ひょっとしてわけのわからない人生が存在することの意味なのかもしれない。



14歳の君へ―どう考えどう生きるか

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2006/12/23
  • メディア: 単行本



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