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41歳からの哲学 [思考]

著者は慶応大学文学部哲学科を卒業後、文筆業。専門用語を使わず哲学するとはどういうことかということを日常の言葉で語ることに定評がある。

週刊新潮で「死に方上手」という連載をはじめ、その後「人間自身」と改題したものをまとめたもの。
そのときのニュースなどを基に著者の考えを述べる形式になっている。
著者自身は哲学者らしく、自分の頭であれこれ考えることがすきで、テレビはほとんど見ないのだそうで、これを書くために見たと書いていた。

第1章 平和なときでも人は死ぬ

なぜ人は死をおそれるか-戦争
生きている人は、死ぬとはどういうことか知ることはできない。死とはそれがなんだかわからないものである。なんだかわからないものだから本当は恐れる必要があるかもわからないのに、恐れる人が多い。考えることをしないで本能的に死を恐れているので、死にたくないために戦争したり、逆に美化して観念のために死んだりする。戦争の抑止力ということなら、死について各人が考えて気が付く以上のものはない。

死にたいのか、死にたくないのか-人間の盾
自分の思い込みのため、観念のために死ねるのは人間だけである。死をもってすれば何とかなると思ってなにかするのは本気とは思えない。観念のため死ぬより観念のため生きてなにかするのが責任というものだ。
観念を観念と見抜くには考えなくてはならない。

カリスマがいったから-正義
カリスマは間違えることがないのでカリスマなのだ。絶対正義なのだ。人はカリスマのいうことをきいていれば間違う心配がないのでついていく。誰がいったかが正義で考え自体が正義ではない。
ところでソクラテスは哲学のカリスマだけど、自分で考えるのが哲学なのに、なんでカリスマがいるんだろう。

ミサイルそれがどうした-北朝鮮
北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。著者は「それがどうした」と思う。
この世界には他人事などひとつもない、すべては関係している。自分の人生を全うする以外人生の意味はない。できることがないと無力感を覚えるのは自分の人生を他人事のように生きている暇人である。

死に方上手とは-テロ
アルカイダが東京中心部にテロをしかけると声明をだした。
生まれた限りは死ぬものだ。だから死ぬまでいきているのであって、生きていても死んでいても大差ない。死んだ方が生きているより悪いとどうしてわかるだろう。
生きているとはどういうことか、死ぬとはどういうことか、この世で行き死ぬ我々にとってこれより本質的な事柄はない。観念を観念と見抜くには自分で考えることだ。

プライドはあったのか-フセイン
フセインのつかまり方には世界中が笑ったろう。または幻滅しただろう。
人生はその人の思いこみで生きるものだから、思い込んでいるように見えているが、本当はそうではない。
恥というのも一つの観念で、自分に対する恥をプライドと呼ぶのではないか。
フセインのプライドが本物なら生き恥をさらしても実現したいことがあったのかもしれない。プライドがあるなら。死後に名を残すは生き恥をさらすの反対であろうが、生きてことをなす方が大変である。

何かのために死ねるのか-自衛隊
自衛隊員はひょっとして死ぬかもしれないことについて、どう自分をなっとくさせているか考えると、おそらくは目的=大義名分でであろう。目的か理由がないと人は自分が死ぬことを納得させられないから。
詩に目的を求めるのは人間の性ではあるが、しょせんは観念である。人間が生存するのは生存しているからだと自分を納得させるのもまた観念である。

他人事の最たるもの-国際政治
地球が丸いということを発見してしまったのが人類の間違い。だからよその国のことも自分の国のように気にするようになった。進歩と信じた交通手段や通信手段の発達でいまや地球はごった煮状態。もう面倒くさい。
政治信条などかけらも所有していない人間が、それぞれの利害損失であれこれ画策しているだけだから、世界情勢はいくらでも移り変わる。柔軟に対応するといえば聞こえはいいが、実態は迎合である。

わかったようでわからない言葉-自己責任
自己責任をとらないひとほど、他人に責任を要求する。でも生きているのは自分なのだから、そんなこと不可能。


第2章いったい人は、何のために何をしているのか

先のことはわからない。だからどうした?-生命保険
自分が死んだら、自分がいないのだから、死んだあとのことを憂えるなんて不可能だ。
生命保険は哲学的に破たんしている。

~かもしれない。で、どうした?-再び生命保険
がんの遺伝子を持つ人が、保険にはいるのを断られたという。
遺伝子があるからといって、がんになるとは限らないだろう。遺伝子でがんになるとわかったと決めつける保険は、わからないから加入するという前提を自分で否定している。

昔はよかった?-景気
自分の青春が景気の良い時代に遭遇したのは偶然である。自分が偉かったのではない。
人生の価値は生活の安定や生命の補償にあると思っていると人は萎えてくると思う。倒産から脳梗塞まで人生いろいろあるのが当たり前。大変なときにどれだけ萎えずに生き抜くことができたかが人生の価値だと思っていた方が生きやすいと思う。

誰と出会うつもりなの-出会い系サイト
通信手段の発達がガラクタに等しい情報群の無制限垂れ流しを生んだ。熟考するまえにすぐ言いたがるという傾向が人を痴呆化している。
人とつながりたい、自分を認めてもらいたいというのが、出会い系やネットチャットを使う人の動機らしいが、自分を認めるのに他人に認めてもらう必要はない。他人と出会う前に自分と出会っておかなければ本当に他人とであうことなどできない。

人間なんぞ、たかが虫けら-大地震
科学なんぞが自然に歯がたつものか。人間なんぞ虫けらだ。
死ぬということすら忘れている現代人には大地震はちょうどよいめざまし時計かもしれない。

どこまで馬鹿になりたいの-テレビ
「楽しめる」「楽しい」が人生の至上価値だと思っている人がいるが、楽しいを実現していった結果それが価値でなくなるという逆説がなりたっている。楽しいことは稀だから楽しいのである。
快楽ならサルだって知っているけど、そも人生とはなにかを追求する方が先。考えるのは精神を所有する人間のみができる行為。

存在しているのは常に今だけ-時間
人生には主観的時間しかないのに、客観的時間が存在していると思っているのが現代人。だからいつまでに何をするという人生設計なんてできる。
時間は前方に流れるものではない。存在しているのは今だけ。一瞬一瞬が永遠。

「よのなか科」だと!?-教育
自分とは精神である。精神であるところの自分を信じなければ他人も信じられない。自分を信じるということと、他人を信じるということは全く同じことである。
外的状況に動じない、強い精神を鍛える。商売の仕方や金の儲け方を早いうちから教えることなどではない。世に出る前には世に出る前にしかできないことがある。それは徹底的に考えて自分の精神を鍛えておくことである。

「考えている暇などない」だと!?-情報化社会
社会を情報化することがいいことだと、大勢のひとが疑っていないらしいことが理解できない。
情報をたくさんもっていることが賢いことだと人は思うらしいが、大間違いである。
自らで考えられるのでなければ、人が知識を自身の血肉として賢くなるということは、ありえない。
「しる」と「わかる」は違う。賢い人間になりたければ、考える暇がないなどといっていないで考えることである。

食べなきゃいい-食の安全
現代人は食べ物に感謝することを忘れている。食の安全など掲げて消費者の権利を振りかざすより、そもそも他の生きものの命を奪ってまで生きる意味を考えてみてはどうか。

その一言のお値段は-携帯電話
「携帯電話は亡国の具である」
人はものの値段は安いほどありがたいと思っているが、あんまり安いと今度はそれをありがたいと思わなくなってくる。値段がそのものの価値なのだ。
言葉はタダだし、だれでも使えるから価値がないと思っているひとがあるが、言葉は相対的価値でなく絶対的価値なのだ。言葉は人間の価値。安い言葉を垂れ流すことは自分の価値をさげること。

金にならないのは当たり前-大学
大学の法人化というのは早い話が大学の株式会社化で、役に立たないもの、金にならないものに国は金をだしたくないということらしい。しかし、本来学問は金にならないし閉鎖的なものだ。世の中には役にたたないことをする人が必要なのである。学者を大事にしない国は心理を喪失して滅ぶ。
大学が愚者の楽園になったのは大学紛争のせいである。

最初から自由である-言論
自由とは他者に要求するものではなく、自分自身により自由であること。
言葉は正しく使われることで人を自由にするのであって、その逆ではない。

活字離れは誰の問題-読書
活字離れは他のメディアの発達のせい。漫画やテレビやパソコンやもっと楽で刺激的なメディアがあるのに、わざわざ書物を手に取る必要はないとうことだろう。人間は楽なほうがすきだから。
しかし、楽ではあるが賢くはならない、一方的にうけとるばかりのものは馬鹿になる。
活字は読んで考えるので賢くなる。
これがわからないので出版業界は「バカでもよめる」本を大量につくって売っている。出版点数は増えても売り上げが落ちるのは当たり前である。

やっぱり欲しい-年金
決まりに逆らうのは面倒くさいので払っているが、あてにはしていない。
自分の人生の価値を共同体に求めるから息苦しくなるのでは。

やっぱり要らない-再び年金
年金は人のために払うものであって、自分のために払うものではないらしい。
それなのに人は自分がもらえるなら払ってもいいと思っている、これではさもしい話になるのは当然である。
年金制度改革に必要なのは人々の意識改革で制度ではない。
自分さえよければいいと思っている他の人のために年金を払えるようになる。それが年金というもおである。
しかし、そうまでして何のために生きるのかという問いの方がはるかに意味があるとおもう。


第3章 考えることに終わりはない

バカの壁を突破する-脳
「バカの壁」には「話せばわかる」なんて大嘘だと書いてある。その原因が脳だとかいてあるので、みな納得するんだろう。現代人は「脳」「遺伝子」「素粒子」にひれ伏すのである。
脳は自然がつくりだしたもので、人間が作ったものではない。それは人間の理解を超えている。脳を持ち出すのは著者のトリックだ。「話せばわかるなんてウソ」という人が本までだして話している?

夢の安楽死病院-老い
かつて長寿がめでたいことだったのは、めずらしかったから。本人にも自覚があってそれなりの振る舞いをする賢者であった。しかし現代では5人に1人は老人でもはや賢人ではない。
現代では老いることは否定的である。若さという価値しか知らなずに老いた人は知恵がない。そして老いはますます恐れられる悪循環である。
現代人は老いを恐れ各種健康法にいそしみながら、ぽっくり死にたいという完全にとっちらかった人生観をもっている。しかしどこかで覚悟をきめなければならないだろう。
介護までされて長生きするのはめでたいとはいえない。安楽死病院を作って、介護うけるくらいなら年金でしなせてほしいものだ。

権利など必要ない-医者と患者
患者権利とう張り紙を見た。
しかし、権利というものは人間をいやしくする。命を自分のものだと思っているから生きる権利、死ぬ権利などといいだす、命は天与のもので、それを認めるなら権利など誰にも与えられる必要もない。

百歳まで生きるとしたら-死
百歳以上の人2万人超。
100歳の自分なんて想像もできない。
でもやっぱり同じように考え事をしているだろう。
40歳すぎていよいよ考え事がおいしく感じられるようになった。生死の謎を考えることはすでに生死を超えることである。最大の心配はボケることだが、ボケてしまえば考えられないことがわからないのだから、やっぱり生きても死んでも大差ない。

損か得かの問題なのか-少子化
生きている人間は自分が社会的経済的諸条件によって存在していると思い込んでいるので、これから生まれる子供の存在を損得で考えるが、もし自分が生まれてくる子どもだったら失礼な話であると分かるだろう。
生みたくて産んだ子供なら頑張って育てるのは楽しいはずだ。生まれる子ども気の毒がる人もいるが、他人の人生を気の毒がるのは失礼か傲慢というものだろう。

命は自然にゆだねるもの-医療過誤
医療過誤で患者が死亡する事件がおきた。
医者を責めるのは簡単だが、医療の進歩にはそれなりに犠牲があったろう。医者に治してくれと頼む以上、医者の失敗は許すべきで、そうでないなら命は自然にゆだねるよりないだろう。

生きてみなければわからない-遺伝子
遺伝子が告げるのは確率だけで、本当にそうなるかは生きてみなければわからない。自分がこうあるのはすべて遺伝子のせいという人もいるが、自分で自分の運命をきめているだけである。人の全遺伝子のうち作用しているのは5%のこりは潜在状態にある。だから発現させれば作用する。
人はそのなるところのものに自ずからなっている。物事はなるようになっていて、ならないようにはなっていないそれが偉大な真理である。
わからないことをわかりたいと思うのが人情でそれは占いだったのが遺伝子になっただけのように見える。

ボケた者勝ち-痴呆
若年性アルツハイマーと診断された人が「死ぬとき私はだれになっているか?」と恐怖を語っていた、過去と未来を失うのが怖いと。しかし自分とは過去と未来だろうか。自分を自分と思っている自分とはなんなのか。生まれた時は自分であっただけのものが、名をつけられ自分はそうだという思い込みのままに生きているのである。だから過去も未来も失うのは生まれる目の状態になるだけである。
問題はボケる方でなく、ボケられるほうで、これは死ぬほうでなく死なれる方が問題なのに似ている。

人生を渡るための船-健康
著者は若いころから頑丈この上なく、体があるなんて忘れ果てていたそうである。しかし40過ぎて体のあちこちに不調が出始め、体があることを思い出したという。体は自然だから変化して壊れなくなる。健康とはそういう自然のことがらに寄り添うというか、離れてみるというか、流れに逆らわず舵をとる構えのこと。体は人生を渡るための船。

アンチエイジでサルになる-老い
老いとはこちら側の願望とは無関係な単なる事実である。
老いへの恐怖は若さが快楽の源泉で快楽の追及が人生の意味だと思っているから。
楽しむだけ楽しんで死にたいというあさましい考えがピンピンコロリという言葉。
死がなんであるか考えずに快楽を追うのはサルといっしょ。
老いるということは否定さえしなければ豊な体験。自分自身が歴史として味わえるのだ。思索する楽しみはいつでも始められて金のかからぬ快楽である。

今さらどうして生命倫理ークローン
現存している技術は使いたくなるのが人情。生命倫理を説いても無駄だろう。
むしろ「なんのための生存か」を考えて明確にしたほうがいい。
ただ生きるのでなく、自分の為に善く生きるのでなければ何のための自分の人生かわからない。
人生は一度きりだから価値があるのであり、取り換えがきくものは価値ではない。
愚かな人類は自らの欲望により自らの人生の価値を没却しているのである。


第4章 なぜ人を殺してはいけないのか

死は現実にはあり得ない-自殺
自殺は恐怖である死を自ら求めるという葛藤である、これを乗り越えるのは衝動であろう。
しかし自殺した人はなくなることを欲しているわけだが、死んでも無になるものだろうか?
自殺は逃げである。生きていることからはなるほど逃げれるだろう、しかし無くならないということからは逃げられない。

死ねば楽になれるのか-再び自殺
死ねば楽になれる保証はない。死んで無になったのに楽と感じることはできないだろう。無は存在しないから無なのだ。こんな当たり前のことを考えてみてはどうだろう。

死ぬときは一人である-ネット心中
死ぬときは一人である。いくら心中でも同じである。もっといえば生きている間もその世界をみているの自分一人だ。一人で死ぬのがさみしいからとみんなで死んでもやはり死ぬのは一人。周囲の人が死ぬのを見ながら死をまつ時間は怖いだろう。死ぬのは一度きり、良く考えてからでないともったいない。

「死ぬ」ことの意味がわかっていない-少年犯罪
人が簡単に人を殺す。普通の子どもの犯罪に世間は驚き心の闇さがしをしたりするが、本来思春期は自分とはなにかという問いをあれこれ悩む時期であるのに、そういうことをしない。すると心の襞がなくツルンとしたままである。映画やテレビやゲームの影響で個々の襞がないので機械じみた心は人を殺す意味が分かっていない。大人も大同小異である。
とりあえずの対策で殺人ゲームを取り締まるべきだ。経済発展と心の教育どっちをとるのかはっきり示しすべきだ。

何を言っているのかわからない-再び少年犯罪
18歳と16歳の少年少女が結婚したいためそれぞれの家族の皆殺しを計画。短絡的というが、短絡というのは普通手順のどこかが飛ばされていることだろう。しかしこれは入力と出力の間に理解可能な中間項が脱落している。
本人たちはどうしてそうなったか説明できるかもしれないが、こちらはそういう回路もあるのかという理解しかできないだろう。つまりマンガ。
しかし精神鑑定は正常であろう。なにを言っているかはわかるので。神戸の少年の言っていることはわからない。おそらくどの時代にもいた異常者であろう。
異常者がいるのは怖くはあるが、時代を超えた普遍性は感じる。むしろ普通の子どもが少しづつ変になっていることに恐怖を感じる。

さて大人はどう答えるか-善悪
ほとんどの人は善悪とは社会的なものだと思っているが、善いということは社会にとって善い事なのではなく、自分にとって善いことである。このときの自分は、自分ではない、誰が作ったかもわからない命のことである、
自分が生きている不思議に言葉で気が付かせる、それ以外に子供に善悪を教えることは不可能である。

一人でさっさと死ねばいいー宅間守
小学校に乱入してたくさんの子どもを殺した男は死刑になりたかったという、一人で死ぬのはくやしいからできるだけ他人を殺して死んでやる、日本の死刑制度を利用した男である、自分が死ぬために他人を殺すな迷惑だ。
死刑制度は更生の可能性か、報復の感情をとるかで賛否がわかれる、著者は死刑囚と往復書簡をかわしたことがあり、彼は更生の感情をもち、死んだつもりで生きてみるという境地にいるのだそうだ。

何を信じていたのか-オウム
ニセの信心は他人にそれを要求するからわかる。
宗教の目的を死の恐怖の超越にあるとするなら、それは個人の問題。教団をとると信者を増やすのが目的になる。本末転倒である。
他人に向かって何かを信じているというのは実は自分の不安を打ち消すためなので、ちっとも超越していないのだ。

虐待するなら子供をつくるな-親
人間だけが出来ちゃった子供を虐待することができる。責任とう概念は人為のものだから、責任をも果たさない人間がいるのは仕方がない。
性交して子供をつくるのはもっとも易しい行為であるのに、一人の人間を肉体的にも精神的にも一人前の人間に育て上げるのはこの世で最も難しい仕事である。ここに人間存在の矛盾がある。


第5章 信じなくても救われる

わからないということが、わかっていない-あの世とこの世
「あの世」のことを取り扱うと、「この世」の行動化奇矯なものになりがちだ。あの世のことはこの世の我々にわからないのだから、当たり前だ。
わからないことをわかったと思い込むのが「信じる」こと。なぜ信じるのかというと苦しみか救済されたかったり、死後の魂をうえるからである。ところで本当にわかっているなら別に信じる必要がないわけで矛盾している。
わからないことをわかるには考えることである。考えるには教祖も教団もお金も不要。
ところで化学はわからないことをわかる方法ではない。遺伝子が解読できても、人生きて死ぬという謎はほんの少しもわかっていないから。

死んだらどうなる-墓
人は生きている感じでしか死んでいる感じがわからない。だから墓の日当たりがいいと、冷え症にはありがたいなんて言う。死ぬというまったくわけのわかない事態に対処するために人類が編み出した涙ぐましい知恵の集積が墓である。

再び死んだらどうなる-葬式
死ぬということがわからないから人は葬式をする。葬式がいるのはそこに死体があるから。葬式とは死んだ者の問題ではなく生きているものの問題。だから死ぬ方は葬式するななどとわがままかも。

弔うとおっしゃるけれど-霊
霊を信じるかときかれれば口ごもるみなさんが、国会で一生懸命戦没者の霊の話をしている。
科学で証明できないから霊を信じないといったりする。
しかし自分の存在を科学の証明に頼る人はいないだろう。それなのになんで死んだ人の存在が特別扱いされるのだろう。自分が存在する不思議も霊が存在する不思議も同じ。

なんと自在でいい加減-神道
神社はただあるだけで何も教えない、そして清潔。これが心地いい。
日本の神様はいい加減で無責任で、少々の罪や穢れは払ってチャラにしてくれるありがたい神である、こんなありがたい神がいるのに新興宗教にいれあげるなんてもったいない。
自分を超えたものを認めるのは本当に大事なこと。それが我々の人生を豊かにする。

信じてはいけません-宗教
税金をとられる季節は帳簿をつけろといわれるので憂鬱である。いっそ宗教法人にしてしまおうかと思う。だって真理の言葉を書いているのだから。名前は「無神教」信じてはいけませんという教え。

当たり前とはなんであるか-再び宗教
空を飛んだりお化けをみたりする超常現象にあこがれてオウムに入信した人が多いらしいが、超常現象より当たり前のことを知ることの方が先ではないか。世界があるという不思議、自分が自分である不思議、人は生きて死ぬ不思議。それらを科学で説明できるという人もいるけれど、科学は答えめいたものを出すけれどなぜという問いには答えられていない。
オウムに入信したのが理科系の受験秀才が多いのは当たり前のことに驚いて考えることをしなかったからである。

悲しみを恐れて愛することを控えるか-愛犬
15年慈しんできた愛犬が亡くなった。悲しみは深いが悲しみをおそれて愛することを控えるのは、どうせ死ぬのだから生きるのはむなしいというようなものである。
死んでのちなにも「無い」ということが考えられないので人は骨に話かけたりするのだろう、すべても本当にはないものを在るとしている自分の心の投影なのかも、この世界すべてが心がつくりだしている幻影。

あの忠実さ、あの善良さ、そして情けなさ-再び、愛犬
同じ名前をつけた新しい犬を飼うことにした。著者は大型犬が好きなので、看取ることを考えると自分の体力の限界があるので、今2代目を飼うことにしたそうだ。
愛犬の散歩は楽しい、そして飼い主との交流も楽しい。犬は力はすごくて、人間の心を無防備にしてしまう、これは本当にいいもの。


41歳からの哲学

41歳からの哲学

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/07/17
  • メディア: 単行本



タグ:池田 晶子
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